五世紀のヤマト政権と若狭
つどい254号
前福井県埋蔵文化財センター所長 中司照世先生
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五世紀のヤマト政権と若狭
(前)福井県埋文センター 所長 中司 照世
はじめに
律令期の若狭国は、当初遠敷(おにゅう)・三方(みかた)の二郡からなり、やがて平安時代の天長二(八二五)年、遠敷郡の西半部を割いて大飯(おおい)郡を分置、都合三郡となった。こうしたさほど広くない地方ではあるが、この地の古墳については大和と同様に山麓に立地する大型古墳の存在や、大正年間の上田三平氏による西塚、昭和三〇年前後の斉藤優氏による十善ノ森・丸山塚の各古墳の調査〔斉藤一九七〇『若狭上中町の古墳』〕にみる豊富な副葬品の出土等、畿外としては異色の様相をそなえている点などから、早くより注目を浴びてきた。
その後、昭和期末から十年余りの間に、若狭の各地に散在する小首長墳(注一)六基が緊急発掘され、また、県教委によって各大型前方後円墳で確認調査〔県教委一九九七『若狭地方主要前方後円墳総合調査報告書』〕が実施されるなど、多くの新資料が得られている。さらに、前後して行われた詳細分布調査で、遺跡の一層正確な分布状況も把握されるに至っている。
この若狭は、人口が希薄であって、近・現代の都市化など社会変動に伴う歴史的環境の大幅な改変が少ない。そのことも幸いして、古墳時代の豪族の動静を推察するための条件が整っている。つまり、わが国でも、古墳時代の実態の解明にはきわめてふさわしい地方と言っても過言であるまい。以下、こうした状況をもとに、在地豪族の動きについて述べてみよう。
一、若狭における主要古墳の分布
若狭における大・小の首長墳など、主要古墳の総数は三〇余基を数える。その多くは旧上中(かみなか)町(現三方上中郡若狭町南部)域に集中しているが、分布は全域に及び(図1)、各地域ごとに少数の主要古墳が点在している(9~33番)。そのほか、図示はしていないが、各地域ごとにそれぞれ数十基から二百基近い、大半は円墳からなる群集墳が分布している。
そもそも、従来から若狭では、北川中流域に散在し「上中古墳群」と総称される中核的な古墳の存在が、その規模や集中度などから注目されてきた。だが、当地域では大型古墳の存在こそ目立つが、周辺に分布する小型古墳の数はあながち多くはないのが実態である。むしろ、律令期の国府や国分寺等の集中する、小浜市遠敷地区(旧遠敷郡遠敷)を中心とし、同市多田から太興寺にかけての北川下流域南岸の山麓部周辺に、百六十二基以上の古墳が確認されており、その数では圧倒している。加えて、古墳以外にも四十基近い横穴墓の群集も報告されている。すなわち、総数二百基を超える数で構成された「遠敷古墳群」こそ、旧遠敷郡域では基盤をなす存在の古墳群とも言いうる〔若狭歴民一九九四『紀要』第五号〕。最近の、近隣域における弥生墓等の検出例から見ても、古墳時代初頭から後期まで、連続する在地首長層(図1―17~25)を中心とする古墳群であろう。
さて、これまでの調査の結果、若狭における大首長墳の変遷が明確となった(表1)。これらの古墳の被葬者である歴代の大首長は、若狭全域を統括したものと考えられ、また、前述のようにいずれの古墳も何らかの調査を経ているので、今後の大幅な変更は考えがたい。ただ、唯一調査が未着手で、後世の改変のため実態未詳の糠塚(ぬかづか)古墳が、五世紀代の大首長墳である可能性を残している。
次に、各古墳の主な特徴を列挙する。ただし、以後の説明を簡単にするため、全体を通して特徴的な点を、前もって略述しておきたい。
まず、初出の大型古墳は上之塚(じょうのつか)古墳である。埴輪がⅢ期に属すが、ならば大首長墳の出現が他の地方よりかなり遅いということになる。一方、丸山塚古墳が最も後出であって、円墳ではあるが、顕著な存在の古墳の消滅がやや早いことになろう。唯一丘陵上に所在する城山(しろやま)古墳と墳丘の消滅で不明な点が多い丸山塚古墳とを除けば、その他はいずれも山麓の緩傾斜地に所在し、周濠・段築・葺石・埴輪を完備するなど、立地や墳丘外部設備の諸状況が、大和の大王墳等と同様な様相をそなえている。その点注目に値する。それのみならず、墳丘が大王家関係者に特定しうる三段築成であることは、この種の古墳の存在自体が畿外ではきわめて稀であるだけに、看過しがたい現象である。
以下、主要な点について個別に説明する。前記のように上之塚古墳の埴輪はⅢ期であるけれども、次の城山古墳との世代間隔等を勘案すると、築造は五世紀前葉に降る蓋然性が強い。周濠底から槍形木製品なども出土しているが、何より墳丘基底線に樹立された、いわゆる「木製埴輪」と呼ばれる木柱の検出が特筆しうる。ちなみに、この種の木柱は、若狭ではほかに城山古墳や、旧上中町日笠(ひかさ)松塚古墳、美浜町帝釈寺(たいしゃくじ)四号墳でも樹立されていたことが確認されている。日本海側では若狭が北限をなしており、越前以北では未確認である。
次に、西塚古墳は、JR小浜線敷設に伴う墳丘の土砂採取で、露呈した石室から豊富な副葬品が出土し、存在が広く知られた。特に金製垂飾付耳飾や金銅製帯金具・砥佩、銅製鈴、銀製鈴などの韓半島からの渡来品(図5)の混在が顕著で、注目を浴びた。
今次調査時にも降雨による墳丘崩壊に伴い石室が再露呈、従来竪穴式石槨とされてきた埋葬設備が、九州系の様相を呈する竪穴系横口式石室(図4)であることが確認された〔若狭歴民一九九九『若狭の古代遺跡』〕。埴輪も、以前から知られていた吉備型(吉備製、図3―1)のほか、新たに尾張型の混在(同図2)も判明し、また、須惠器の出土点数(同図3~5)も増加、陶邑のTK二三型式期で、五世紀後葉に属すことが判明した。
さらに、六世紀代にかかるが、十善ノ森古墳も以前からやはり九州系の横穴式石室を持つことが知られていた。今回の調査では、石室入口の前にあたる前庭部の清掃で、側石が「ハ」の字状に開くことや、また、その前方の町教委の発掘区で、石室から周濠外にかけて南方に延びる、埋没した陸橋状の渡り土堤の存在が検出された(図6)。
一方、石室内部の再清掃で、三〇〇〇個を超えるガラス玉の追加や、著名な鉄地金銅製双龍文鏡板付轡とセットをなす鉄地金銅製鈴付剣菱形杏葉の新発見があった。そのほか、他に例を見ずわが国でも唯一の出土例である漆器(片)や異形のトンボ玉が確認され、副葬品に現われた渡来系の様相が一層顕著になった。
なお、大首長墳ではないが、五世紀中葉の小型前方後円墳の向山(むかいやま)一号墳では、前方部に向かって開口する九州系横穴式石室や、尾張型の埴輪をそなえていることが判明した。副葬品には、金製垂飾付耳飾や三輪玉形ガラス製玉・ガラス製連玉などの渡来品が混入している。
二、コシにおける関連遺物
前節で、若狭の大型古墳等にみとめられる他地方の影響や渡来系の品の混在が顕著であることについて紹介した。次に、若狭に北東接し、強いつながりを有するコシの主要関連遺物の一部(図8)を紹介する。
渡来系遺物として、越前では敦賀市疋田(ひきた)遺跡、福井市天神山七号墳、同市和田防町(わだぼうまち)遺跡の各出土品を取り上げる。疋田遺跡は律令期の愛発(あらち)関跡の推定地で、柄頭(同図1)は韓半島咸安に類例がある。天神山七号墳は福井市東部の小首長墳で、耳飾(同図2・3)は加耶製である。和田防町遺跡は、その首長の支配下の集落跡である。出土品の韓式系土師器(同図4)について、半島人の渡来を示す存在とみなす新説が提起〔朴 天秀二〇〇七『加耶と倭』〕されている。確かにその可能性が皆無とは言い難いが、土器の観察結果やその他関連する諸条件を勘案すると首肯しがたい。やはり、当時の集落在住者が渡海し、帰郷後にかの地で習得した技法で製作した品とみなすのが妥当であろう。
一方、加賀では加賀市吸坂(すいさか)丸山五号墳、同市二子塚狐山古墳の各出土品がある。吸坂丸山五号墳は、大首長墳である二子塚狐山古墳の近隣に所在し、小型古墳であるにもかかわらず当地方では稀な埴輪をそなえている。二子塚狐山古墳は、副葬品に多くの渡来品(同図7~11)を有するが、中でも中国製画文帯神獣鏡(同図7)と銅製鈴(同図10)は、他に関係がたどれる品として特筆に値する。
前者の鏡は、福井県立博物館による資料購入に伴う調査で、新たに踏み返し鏡の存在が判明しており、その由来などからみて福岡県沖ノ島出土である疑いが濃い。また、銅製鈴は、西塚古墳の品と同一工房で製作したいわゆる同工品であるが、そのほか大阪府羽曳野市峯ケ塚古墳、千葉県館山市大寺山洞穴などや、韓半島南西端の海南造山古墳でも類例が確認されている(図10)。
ところで、この二子塚狐山古墳は、周濠・段築・葺石・埴輪を完備しており、加賀では傑出した大首長墳である(注二)。江沼盆地の中央部で、同地方では稀な平地に立地しており、被葬者は江沼臣ではないかと推定される。一方、峯ケ塚古墳の被葬者はヤマト政権中枢に連なる人物、大寺山洞穴の被葬者は海人であろう、と推察されている。
こうした若狭・コシの渡来系遺物は、その大部分が韓半島から将来されたものであることが推察される。とりわけ加耶の咸安・陝川・居昌・高霊に関連する品の存在を見出すことができる。また、十善ノ森古墳出土の獣面文革帯金具については、従来韓半島の陝川玉田M三号墳や伝居昌・公州宋山里二号墳などの出土品に類例の存在が知られていたが、鳥取県米子市高山古墳でも類似品の副葬が判明した〔鳥取県博二〇〇八『因幡・伯耆の王者たち』〕。
三、他の地方との交渉ルート
以上のように、若狭を中心としてコシの各地に、国内外の他地方の影響を示す遺構や遺物の濃密な存在が見られる。これらを偶発的な文化や遺物の伝来とみるのは不自然で、それぞれの地との交渉の結果とみなすのが穏当であろう。ならば、こうした現象はどのようなことがらを契機に、いかなるルートで将来されたものであろうか。
まず、同じ考古学的な手法でその手掛かりを探ることができるルートを対象にすると、既述の石室とともに石棺の存在が参考になる。その一つが、越前における五世紀前半の大首長墳の福井市免鳥長山古墳の舟形石棺である。棺蓋上面に連続三角文等が施されており、形こそやや異なるが、島根県松江市丹花庵(たんげあん)古墳の長持形石棺が、製作時期や文様が近似している(図9)。免鳥長山古墳が越前海岸の小漁港を見下ろす立地で、他方、丹花庵古墳は宍道湖に面し、所在地名が「古江」であることなど、誠に示唆的である。
次に六世紀前半に降るが、越前の後代の大首長墳である坂井市椀貸山古墳では、九州系の横穴式石室に九州系の遺骸安置設備である石屋形を付設している。さらに、六世紀後葉の小首長墳の福井県吉田郡永平寺町春日山古墳では、九州系の横穴式石室の内部に出雲系の横口式舟形石棺を設置している(図9)。
このように石室や石棺に表れた他の地方色の発現から推察すると、おのずからコシ・若狭から山陰を経由して、九州に至るルートの特定に至る。ちなみに、獣面文帯金具の資料が新たに周知された前方後円墳の高山古墳は、米子市宗像に鎮座する式内宗形神社の後方の丘陵上に所在している。同時に、神社背後に所在する前方後円墳の宗像一号墳も、九州系横穴式石室をそなえている。考古学的な現象面にとどまらず、所在地名や式内の神社名などから、海人族の関与すら窺わせている(「宗像」の南東には「安曇(あずま)」の地名も存在する)。
四、膳臣に関する伝承と首長墳にみる動静
ところで、『先代旧事本紀』や『高橋氏文』によれば、若狭は膳臣が支配したという。こうした文献の記載に依拠して、古墳時代の若狭の大首長を膳臣とみなす説には、顕著な異論をみない。そこで、『日本書紀』の中から膳臣に関する主な記事を抜粋すると、国内外における対外交渉が目につく(表2)。わけても、雄略八(四六四)年の、膳臣斑鳩が吉備臣小梨等と韓半島へ出兵したという伝承は注目に値する。前記のように、西塚古墳の埴輪には吉備製が混在している点、埋葬設備は九州系の竪穴系横口式石室であ
る点、副葬品に半島からの渡来品が含まれている点、共伴する須恵器が五世紀末にあたる点など、文献の記述と考古学的な事象
とがまさに符合している。あまつさえ、古墳の造営地が、地元で「膳部山(ぜんぶやま)」と呼ばれる山の麓という点で、地名さえも合致している事実は看過しがたい。
したがって、やはり若狭の一連の大首長墳の被葬者は膳臣であって、少なくとも雄略八年の記事は全くの虚構ではなく、かつ、西塚古墳の主こそ「膳臣斑鳩」その人ではないか、と考えてみたくなる。ちなみに、『日本書紀』では雄略八年の倭軍の新羅救援の記事に続いて、同九年にヤマト政権から胸方(宗像)神を祠る勅使が派遣されたことを記しており、派遣軍の帰国に伴うものかと推察される。先述のように、二子塚狐山古墳の被葬者は、その副葬品から韓半島へ渡航したことを窺わせるが、同古墳の銅鏡の踏み返し鏡が、沖ノ島への奉斎品であった可能性が濃厚なのも、興味深い。この品の存在が、渡航ルート上の寄港地に沖ノ島が含まれることと、ヤマト政権などによる宗像神の祭祀の両方を傍証することとなるからである。
ところで、若狭の大首長墳は、畿外では存在が稀な三段築成が大半である。三段築成は、大王家関係者の陵墓の表象をなしているのであるが、畿内外周域におけるこの種の古墳の分布(図12)をたどると、興味深い事実が確認できる(注三)。
再度古代の文献の記述に戻ると、膳臣は北陸に派遣された将軍である大彦命の子孫で、阿倍臣・伊賀臣・阿閉(あへ)臣等と同族であるという伝承が存在する。三重県名張市には三段築成の女良塚(じょろうづか)・馬塚両古墳が存在し、また、同県上野市には御墓山古墳が存在する。前者の所在地は旧伊賀国伊賀郡に属しているので被葬者は伊賀臣の、後者には阿閉臣を祭神とする伊賀国一宮の敢国(あえくに)神社が近接しているので被葬者は阿閉臣の、それぞれ可能性を疑わざるをえない。ちなみに、塚口義信氏は、桜井市茶臼山古墳の被葬者として大彦命(『記』の大毘古命)を、同市メスリ山古墳の被葬者としてその子の武渟川別(たけぬなかわわけの)命(みこと)(『記』の建沼河別命)を想定している〔塚口一九九七「桜井市茶臼山古墳・メスリ山古墳の被葬者について」『日本書紀研究』第二十一冊〕。桜井市の市街地南部の地名が阿部で、名張盆地の入り口の地名が安部田であるのも、きわめて暗示的である。
こうした推定に大過ないならば、奈良県桜井市から名張市・上野市を経て、旧上中町にかけて、北陸方面に至るルート沿いに大彦命の系譜をひく豪族が盤居していることになる。これは、大彦命が派遣されたという伝承のルートとまさに合致することとなろう。そして、女良塚・御墓山・上之塚の各古墳のそなえる埴輪が、いずれもⅢ期である事実は、膳臣は四世紀末~五世紀初頭に初めて若狭に派遣され、その地の在地豪族になり得たのではないか、と考えさせる。
さらに、免鳥長山古墳のほか、京都府京丹後市産土山(うぶすなやま)古墳、石川県羽咋市滝大塚古墳など、越前・丹後・能登の隣接各地方において、同時期の首長墳が足並みを揃えるかのごとく、突然以前の首長墳とは大きく異なり、臨海性の立地をとる共通の現象がみとめられる。半島の争乱に関連し、軍事行動に伴う出航地を体現するものではないかと思えるが、一方、対外交渉に関わった伝承の多い膳臣の、若狭入りを傍証するものにほかならないのではあるまいか、とも思えるのである。
おわりに
古墳時代の若狭の大首長の動静について私見を述べた。つまり、当地における大首長墳の存否や諸特徴から、大王家につながる系譜をもつ膳臣が、若狭の大首長として五世紀前後に初めて在地豪族化し、やがて六世紀後半には再び居を大和に移したのではないか、というのが私の推測である。
もとより、考古学的な事例に関して、『記紀』に見える膳臣の出自や動静を、そのまま安易に短絡させることは、問題が少なくない。また、仮に記載が事実であったとしても、伝承をとどめる膳臣が、いずれも同一の系統をなすものとも限らないことは、論をまたない。
それでも、種々な調査の進展に伴って、若狭・越前の首長墳では五世紀中葉にはいち早く横穴式石室が登場するなど、日本海側では同種の埋葬設備の出現の嚆矢をなすことが明らかになっている。しかも、九州系の特色をそなえている点や、その他の遺跡を含めて他の地方に由来する遺物の出土例が漸次増加するなど、五世紀以降当地の豪族の間に活発な対外交渉が行われたことを窺わせる。こうした考古学的側面は、古代の文献に記載された内容と合致する面も多く、軽視しがたい。資料の一層の増加と、考古学と文献史学という、異なる両分野からの相互のさらなる検討が望まれる。
最後に、小稿では、紙面の関係上、単一例の報告書など基礎的な参考文献の掲載を大幅に省略しているが、ご了承賜りたい。
注一 全国的な検討結果から墳丘長六十三、四メートル以上を大首長墳とし、それ以下で墳丘長や径二十三、四メートル以上を小首長墳とする。
注二 なお、二子塚狐山古墳では、石棺も当地方の初出例であるが、越前の笏谷石製である蓋然性が濃厚である。江沼(余奴)臣が継体の母振姫に連なる系譜であるだけに、興味深い現象といえよう〔中司二〇〇七「継体大王を擁立した古代北陸勢力」『越の国シンポジウム二〇〇七編纂誌』〕。
注三 図12-19には、田中王塚古墳を三段築成として追加・登載している。その当否についてはなお今後の検証が不可欠であるが、そうした疑いが濃厚であることを、昨年の坂井市・高島市主催の両シンポジウムにおいて指摘している。詳細は注二文献参照。
注) 赤字は管理人が印す。
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