百済王家の内紛とヤマト政権
つどい253号
百済王家の内紛とヤマト政権
-4世紀末の争乱と関連して-
堺女子短期大学学長 塚口義信 先生
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百済王家の内紛とヤマト政権
ー四世紀末の争乱と関連してー
堺女子短期大学学長 塚口 義信
はじめにー高句麗・百済・新羅をめぐる東アジアの情勢
遼西・遼東地域を中心に勢力を拡大した鮮卑族の慕(ぼ)容(よう)?(かい)(鮮卑大単于))は三一三年に死亡するが、その子慕(ぼ)容(よう)?(こう)は父のあとをうけてさらに勢力を拡大し、三三七年にみずから燕(えん)王と称した(前燕の建国)。?は勇猛・残忍で知られる後趙(ちょう)の石虎(在位三三四~三四九)や段(だん)氏(鮮卑族の有力部族)の軍と戦ってこれらを破るとともに、大軍を率いて高句麗(ツングース系の扶余族の支族)を討ち、三四二年、国都の丸都城(鴨緑江中流の輯安(しゅうあん))を攻略した。
大敗を喫した高句麗はこれにより南下政策を開始し、新羅や百済を圧迫した。これに対して新羅は従属的な立場をとるが、国家形成をすすめていた百済はこれに対抗した。
そこで、高句麗の故国原王は三六九年九月、二万の軍勢を率いて百済を攻略した。高句麗はその二年後(三七一)にも百済に進攻するが、敗北。百済はこの機に乗じ、王と太子が三万の兵を率いて平壌(ぴょんやん)城を攻撃して故国原王を戦死せしめ、大勝した。百済王余句(近肖古王)はその三カ月後の三七二年一月、東晋に朝貢して初めて国交を開き、鎮東将軍領楽浪太守百済王に冊封された。
一、倭・済軍事同盟の成立
『日本書紀』神功皇后摂政四十六年の条によると、甲子年(二四四年。干支二運下げて三六四年)七月に百済人の久?(くてい)・弥(み)州(つ)流(みつる)・莫古(まこ)が卓淳(とくじゅん)国(こく)(釜山の西北昌原附近((1)))に行き、日本と通交したい旨を卓淳国王(末錦旱岐(まきむかんき))に告げたという。同年、卓淳国に遣わされた斯摩宿禰(しまのすくね)がこれを聞き、従者の爾波移(にはや)と卓淳人の過古(わこ)二人を百済に遣わし、斯摩宿禰は日本に帰国した。翌四十七年丁卯の年(二四七年。干支二運下げて三六七年)百済王は久?・弥州流・莫古を日本に派遣したが、その送者として千熊長彦(ちくまながひこ)(職麻那那加比跪(ちくまなかひく))が百済に行き、辟支山(へきのむれ)・古沙山(こさのむれ)に登り、盟約を交わしたという。
これら一連の記事は、吉田晶氏が考証されたとおり史実に基づくものとみられ、その実年代も『日本書紀』の紀年を干支二運(一二〇年)下げたそれぞれの年が考えられる((2))。
とすれば、その盟約の実際の内容は「百済と倭との軍事同盟」ともいうべきものであった可能性が大きいと考えられる。高句麗の南下政策や対新羅関係で苦しんでいた百済としては日本の軍事的援助に期待するところが大きかったと思われるし、日本としても鉄や大陸系の新しい文物を百済から入手できることを期待していたと思われる。ここに両者の利害関係が一致し、以後七世紀まで続く親密な日・済関係の第一歩を歩み始めることとなったのである。なお、既に指摘されているように、この軍事同盟を記念して百済王から倭王に贈られたのが、「泰和四年」(三六九年。泰和は太和で東晋の年号)の銘をもつ石上神宮所蔵の七支刀であろう。
二、四世紀末葉における百済王家の内紛
三八五年乙酉、辰斯王が即位するが、この王位継承には不可思議な点がある。『三国史記』百済本紀には「太子(阿花)少、故叔父辰斯即位」とあるが、『日本書紀』神功皇后摂政六十五年(二六五年。干支二運下げて三八五年)の条では「百済の枕流王(とむるおう)薨る。王子阿花、年少し。叔父辰斯、奪ひて立ちて王と為る。」とする。三品彰英氏はこの点について、次のように述べておられる。少々長くなるが、原文を引用する((3))。
辰斯王?insa-wan の死については、『三国史記』百済本紀辰斯王八年条に、「王田二於狗原一、経旬不レ返、十一月薨二於狗原行宮一、」とあり、文章の表現形式からいって王の不慮の死、特に故殺を伝えたものと了解してよい。その点、書紀に「百済国殺二辰斯王一、以謝之」とあるのは、その真相を伝えたものである。そもそも辰斯王の即位に至った事情については「太子(阿花)少、故叔父辰斯即位」(史、済紀)、「王子阿花年少、叔父辰斯奪立為レ王、」(神功紀)とあり、神功紀の奪立と記している方が実相を語るものであろう。辰斯・阿花の王位継承には最初から競望簒奪の内訌のあったことが知られ、右の辰斯王の故殺もそれに聯関するものであったことは推察に困難でない。だが問題は当時の百済の対外情勢からしてそのように簡単ではなく、書紀は辰斯王の故殺の理由を「嘖二讓其无レ礼状一、」といい、日本側から圧力をかけたことを伝えている。阿花王派がこの日本の圧力に便乗したことも察知出来るが、そもそもの原因である「百済辰斯王失二礼於貴国天皇一、」とは具体的に何を意味しているのであろうか。失礼於貴国という表現は応神紀八年条注文にも見られ、百済が日本の半島政策に不順であった場合に多く用いられている。とすれば、この場合辰斯王の対高句麗政策が考えられる。辰斯王代になると高句麗は次第に南下の勢を示し、辰斯王の態度は次第に消極化しつつあり、特に王の八年すなわち薨去の年〔三九一―塚口〕の五月には広開土(好太)王談徳の進攻に対して「王聞二談徳能用一レ兵、不レ得二出拒一、(史、済紀)、という無抵抗に漢水以北の諸城を手離している。無抵抗は半ば降伏を意味するとすれば、日本はそれを快としなかったこと勿論である。広開土王碑文によれば、百済が高句麗軍に降伏し臣礼をとったことは明らかであるが、百済本紀の辰斯・阿花両紀には、何ら高句麗に降ったことを記載していない。王代紀の面子としては止むを得ないとして容認するとしても、その間に降伏の実相を読みとる必要があろう。すなわち失礼於貴国とは辰斯王の高句麗への接近乃至は降伏と解して大過ない。……(下略)……
辰斯王の即位と死および阿花王の王位継承に競望簒奪の内訌があり、かつこれらの問題に日本が深く関わっているとされている点は、支持すべき見解と考える。また晩年の辰斯王の高句麗に対する無抵抗な態度に日本が快とせず、その無礼の状を叱責して圧力をかけたとみておられる点も、首肯すべき見解と思われる。
しかしながら、辰斯王殺害の主たる原因を高句麗政策に帰された点については、やや疑問が残る。『三国史記』百済本紀および高句麗本紀によれば、辰斯王は五年(三八九)秋九月に高句麗の南辺を侵略し、六年(三九〇)秋七月にも達率真嘉謨(まかぼ)に命じて高句麗に出兵し、その都坤城を攻破して捕虜二〇〇人を得ている。こうした点をみると、辰斯王が対高句麗政策において全く消極的であったということでは決してない。
してみると、辰斯王殺害の原因に高句麗政策をめぐる問題もあったであろうが、それはあくまでも原因の一つであって、その主因は別に存在していたとみなければならない。そこで注目されるのが、辰斯王即位時における百済王家の内紛である。おそらく当時、百済王家の内部には阿花王派と辰斯王派が存在し、後者が力によって「太子」の阿花王を退け、辰斯王を即位せしめたものと考えられる。とすると、この両派の対立がその後もなお続き、辰斯王の高句麗への降伏(三九一年、『広開土王碑』による)を契機として阿花王派が辰斯王を殺害した、とみるのが妥当である。
では、この両派に対する日本の対応はどうであったのか。応神政権が阿花王派を支持していたことは『日本書紀』の記述によって明らかである。また、それ以前の政権が辰斯王派を否定していなかったことも、ほぼ明らかである。史料による限り、辰斯王の即位について日本が反対したような形跡は全くみられないし、その在位期間中に日・済関係が悪化したような形跡も、死亡直前の時期を除いて、全くうかがわれないからである。
だが、ここで考えてみなければならないのは、ヤマト政権がこのような外交政策の重大事を決定する場合、政権内部で外交政策をめぐる確執や対立が全くなかったのかということである。その後の歴史をみると、むしろ確執や対立が全くなかったとみる方が不自然である。私は、ヤマト政権が辰斯王支持から阿花王支持へ外交政策を転換した背景には、ヤマト政権内部の事情、すなわち政権内の派閥抗争が大きく関わっていたのではないかと思量する。というのは、そうした権力闘争をうかがわせる伝承が『記』『紀』にみられるからである。
三、四世紀末の争乱
私は別稿((4))で、四世紀末前後の時期にヤマト政権内部において争乱が勃発したとする説を提起した。私見の概要は以下の通りである。
朝鮮半島へ出兵した応神の名で語られている勢力は、帰還後、九州(特に日向)諸族の支援を得て摂津に進軍し、大和北部から山城南部・近江南部・摂津・河内北部を勢力基盤とするところの、四世紀後半にヤマト政権(畿内政権)の最高首長権を保持していた政治集団(その奥津城は佐紀盾列古墳群・西群)の正統な後継者である忍熊王の名で語られている軍勢と戦い、これを打倒したのち、大和の軽島の明宮で即位し、河内政権(あるいは河内大王家)の基礎を築いたと考えられる。なお、この応神の名で語られている人物は、その出自系譜が伝えているように、山城南部の綴(つづ)喜(き)(京都府京田辺市附近)を本拠とする政治集団の出身で、のちに、古市古墳群の所在する河内誉田地方の一族のもとへ入り婿のかたちで入っていった人物と考えられるから、この争乱の本質は、佐紀盾列古墳群(西群)を築いた政治集団の内部分裂であったと言ってよい。 それゆえ私は、この争乱をヤマト政権の分裂と位置付け、「四世紀末の内乱」とも称している。
いま、右に示した私見に百済王家の内紛に関する私見を重ね合わせてみると、どのようなことになるであろうか。両者は全く不可分の関係にあり、四世紀末の争乱の原因が百済をめぐる外交政策にあったことが知られるであろう。
これを要するに、四世紀末の争乱とは、辰斯王を支持していたヤマト政権体制派(忍熊王の名で語られている既存の支配勢力)に対し、反主流派(神功・応神の名で語られている勢力)が企てたクーデターにほかならないのである。そしてその時期は、おおよそ辰斯王の殺害から阿花王即位に到る前後の時期、すなわち三九一年前後の時期と考えられよう。特にこの場合、朝鮮半島から帰還したのちに忍熊王を打倒したとする『記』『紀』の伝承を重視するならば、三九一年の直後であった可能性が大きい。
では、この争乱は、いつごろまで続いたであろうか。私は、その手がかりを、『三国史記』百済本紀にみえる次の記事に、求めたいと思う。
(1)〔四〇五年〕
腆支王。或云直支 梁書、名映。阿?之元子。阿?在位第三年立爲太子。六年出質於倭國。十四年王薨。王仲弟訓解攝政。以待太子還國。季弟?禮殺訓解。自立爲王。腆支在倭聞訃。哭泣請歸。倭王以兵士百人衞送。?至國界。漢城人解忠來告曰。大王棄世。王弟?禮殺兄自立。願太子無輕入。腆支留倭人自衞。依海島以待之。國人殺?禮。迎腆支?位。妃八須夫人。生子久尓辛。(腆支王の条)
(2)〔四二八年〕
二年春二月。王巡撫四部。賜貧乏穀有差。倭國使至。從者五十人。(豐有王の条)
倭王が「兵士百人」で護送させたり、倭国の使者が「従者五十人」で百済王都まで行かせているところをみると、このころ既に争乱は沈静化し、瀬戸内・北部九州沿岸の諸集団の大半はヤマト王権と従属的な同盟ないし連合関係によって結ばれていたことが考えられる。この争乱の影響は西日本の各地に及んでいたと推測されるから、もしも争乱の真っ直中であったとすれば、とてもそのような少人数で朝鮮半島まで行けたとは考えにくいからである。争乱は五世紀初頭には一応、収束していたとみてよいのではなかろうか。
むすびにかえてー考古学との接点ー
四世紀末の争乱の結果、それまでのヤマト政権体制派と同盟・連合関係を結んでいた各地の政治集団は、重大な岐路に立たされたに違いない。新政権に従属するか、対抗するか、一族の興亡をかけたむつかしい選択肢を迫られたはずである。かりに従属する道を選択したとしても、在地における従前の優位性を維持することはかなり困難なことであったろう。
これに対し、新政権派に属していた政治集団は争乱の結果、ヤマト王権の権威と権力を背景として急速に台頭し、それまでの首長層に替わって新たな支配層を形成した場合が少なくなかったと考えられる。
要するに、ヤマト政権を構成する有力首長層の変動が、地方の在地有力首長層の再編を余儀なくさせたということである。四世紀末~五世紀初頭前後の時期にみられる西日本的規模における首長墓系列の変動も、こうした在地首長層の交替に伴って生起した現象として把握されるべきものと思われる。今後、歴史学と考古学の総合的研究((5))がより一層進展することを願いつつ、擱筆することとしたい。
〔注〕
(1)田中俊明『大加耶連盟の興亡と「任那」』(吉川弘文館、一九九二年)。
(2)吉田晶『倭王権の時代』〈新日本新書〉(新日本出版社、一九九八年)、同『七支刀の謎を解く』(新日本出版社、二〇〇一年)などを参照。私は、細部については異論もあるが、基本的には吉田氏の見解を支持している。したがって、この小論も氏の研究に負うところが多い。
(3)三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考證』上巻(吉川弘文館、一九六二年)。
(4)塚口「四世紀後半における王権の所在」(末永雅雄先生米寿記念会編『末永先生米壽記念 獻呈論文集』坤、所収、奈良明新社、一九八五年)、同「佐紀盾列古墳群とその被葬者たち」(『ヤマト王権の謎をとく』所収、学生社、一九九三年)、同「佐紀盾列古墳群の謎を探るー大和北部と山城南部の政治勢力」(『日本古代史〔王権の最前線〕』所収、新人物往来社、一九九七年)、同「河内大王家、明石海峡を制すー五色塚古墳の被葬者と四世紀末の内乱」(『日本古代史〔争乱〕の最前線』所収、新人物往来社、一九九八年)など。
(5)中村修氏の最近の一連の研究(「ホムタ・オシクマ戦争」〈横田健一編『日本書紀研究』第二十三册、所収、塙書房、二〇〇〇年〉、『乙訓の原像』〈ビレッジプレス、二〇〇四年〉、「乙訓(弟国)と久我国」〈『古代史の海』第五〇号、二〇〇七年〉など)は、その結論に賛成しがたい点もあるが、こうした視点からなされた意欲的な試みであり、注目される。参照されたい。
〔挿図出典一覧〕
図1、大阪府立近つ飛鳥博物館編『鏡の時代ー銅鏡百枚ー』(大阪府立近つ飛鳥博物館図録5、一九九五年)。
図2、山尾幸久『古代の日朝関係』(塙書房、一九八九年)。