高松塚古墳についての、ある一つの座談会記録
つどい252号
・豊中歴史同好会設立二十周年 『つどい』二五〇号記念 特集号
巻頭言にかえて 堺女子短期大学学長 塚口義信先生
・-高松塚古墳についての、ある一つの座談会記録-
「ある一つの学生生活」 高松塚古墳を語る 堺女子短期大学学長 塚口義信先生
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豊中歴史同好会設立二十周年 『つどい』二五〇号記念 特集号
巻頭言にかえて 堺女子短期大学学長 塚口義信
本会会長山口久幸氏より、平成二十一年一月号の『つどい』に巻頭言を書いて戴けないか、との依頼があった。とくに平成二十一年は設立二十周年に当たる記念すべき年なので、長くなってもよいから、私にしか書けないようなことを書いてほしい、という一言も添えられた。
さて、何について書こうか、二カ月ほど悩んだが、通り一遍の巻頭言では納得して戴けそうにもないので、三十六年ほど前に開催されたある座談会の記録を掲載させて戴くこととした。それは、飛鳥の高松塚古墳の発掘調査に参加した学生たちを中心とした座談会である。実は、この座談会は、次の三つの点において重要な意味を持っている。
その一つは、高松塚古墳の壁画がテレビで公表され(昭和四十七〈一九七二〉年三月二十六日の夜)、一斉に新聞報道された日(同三月二十七日)から、わずか一カ月後のことであったということである。高松塚古墳については、これまで夥しい数の座談会やシンポジウムが開催されてきたが、この座談会はそのなかでも極めて早い時期に行われたものの一つであったことである。その意味において、発掘調査参加者の壁画発見の感動が、まことに生々しく伝わってくる。
二つめは、この座談会の内容がほとんど世に知られていないことである。掲載紙の性格上、それは止むを得ないことであるが、想えば勿体ないことである。いまだ知られていないことが、この記録のなかに記されているかも知れないのである。
三つめは、この座談会の目的が学生生活の一端を語って戴く点にあったことである。当時の大学生がどのような学生生活を送っていたのか、この点は現在の大学生にとっても大いに参考となろう。
この座談会の記録も、歴史の一齣である。どうかご味読願いたい。なお、司会は森本靖一郎氏と私が担当したが、森本氏はのちに学校法人関西大学理事長(現在は理事・相談役)を務められた方である。
ー高松塚古墳についての、ある一つの座談会記録ー
「ある一つの学生生活」
高松塚古墳を語る
日時 昭和四十七年四月二十八日 会場 ニューミュンヘン(梅田)
出席者 敬称略 順不同
直宮憲一(院・日本史)中上京子(史三)
藤原 学(同) 中川艶子(同)
松本信夫(同) 今井雅子(史二)
石田 修(同) 亀島重則(同)
関永津子(史四) 西 智規(同)
友成誠司(史三) 村井政一(中二)
足立義之(経二)
末永雅雄(名誉教授)網干善教(文・助教授)
広瀬捨三(学長)
久井忠雄(理事長)
今井廉兼(常務理事)
吉田鹿之助(評議員会議長)
樫本信雄(校友会会長)
(教育後援会)小西信一郎 増田明 植田正路
(千寿会) 坂本清
∧座談会の目的∨
二万四千余人を擁する、わが関西大学。そこで学生たちは、いったい何を考え、またどのような学園生活を送っているのであろうか…。そこには、実にさまざまな生活パターン(型)が存在しているのである。
しかしわれわれは、それを見て単に驚嘆するだけに止まっていてはならないであろう。少しでも有意義な学生生活を送るためには、何よりもまず他人がどのような生活を送っているかを観察し、それに対して客観的で冷静なる分析・批判を行ないつつ、現在あるいは将来における自己の在り方を考えてゆくことが必要である。
そこで今回は、日ごろ考古学の研究に勤しんでおられる学生諸君にご無理を願い、発掘調査を通じて見た、学園生活の一端を語っていただくことにした。最近、極彩色の壁画で世界の人々を驚かせた、かの「高松塚古墳」は実に彼ら考古学研究室のメンバーによって発掘せられたのであり、そうした彼らの生活を垣間見るのも、決して興味のないことではなかろう。
(以下は座談会の抄録である)
∧高松塚古墳の発掘に思う∨
広瀬 末永先生らのもとで学生諸君が調査しておられた高松塚古墳から、思いもかけない見事なものが発掘され、日本のみならず世界中をびっくりさせましたことは、誠にうれしいことでございます。学術上の価値につきましては私は門外漢で、何も分りませんが、あれは確か昭和二十二年でありましたでしょうか、パレスチナで死海文書、つまり聖書の写本が発見されたことがございました。調べてみますと二千年ほど昔のもので、今までの旧約聖書より二倍も古いものであることが分りました。これはキリストが生きていた頃のもので、世界の驚きとなっています。今度の壁画の発掘も、色々な点から、それに勝るとも劣らないものであろうと、私は素人なりに考えています。それを皆さんが発見されたのは、まことに喜ばしいことでございます。
末永 さきほどから皆さんに色々と祝いの言葉をいただき、参加しました網干君および学生諸君にかわりましてお礼申し上げます。しかし私は、大学側の立場から申しますと、まだ名誉教授でございまして、学生らを指導しなければならんという責任もあるわけです。現職の時のように学部の学生を指導するということにはなっておりま
せんが、さきほどから皆さんにいただいた厚い言葉をお聞きしまして、今後もなお、大学のために努力しなければならないことを痛感致しました。
たまたま関大の学生が一団となって今度の調査に参加することができましたが、これは日本の考古学界にとっても、また関大にとっても、おそらく千載一遇のことであると思います。今後もわれわれは、それこそ大学による大きな調査団を組織して調査・研究し、その成果を報告書や研究論文などにして学生諸君を訓練してゆく考えでおります。学生諸君も、そういう意味で、もっともっとがんばってもらいたいと思う・・・・(笑)。
∧発掘調査に参加して∨
森本 どうもありがとうございました。それでは次に、学生諸君にお話を伺いたいのですが、皆さん! この発掘調査に参加されて、どのような感想を持っておられますか?
今井(雅) 私、興奮の一言につきると思っています。まだ大学に入って一年足らずでこのような調査に参加できたこと、大へん喜んでいます。
中上 私の場合、今度の発掘は三月一日からほとんど毎日現地に行き、調査をしました。でも、非常に偶然で父も母も「運がよかったなあ」とばかり言っております。私より母の方が喜んでしまって・・・・。そう言われると私も改めて「そうかなあ?」と思い、うれしくなってくるんです。
∧親が理解してくれた∨
中川 ずっと発掘に参加していたのですが、あの壁画が出た時には丁度家に帰っていて、非常に残念だったんです。あくる日呼ばれて、びっくりしました。それから一番うれしかったことは、今回の発掘で、どうやら母が私のしていることを理解してくれたらしいことです。発掘調査に行っておりますと、やむをえない理由で夜遅くなる時がありますが、いままでは心配そうな顔つきで、ただ怒るだけだったんです。ところが今回の発掘で、母も私のしていることを非常によろこび、積極的に協力してくれるようになりました。
森本 いわゆる世代の断絶がなくなったというわけですね(笑)。
網干 友成君も壁画が見つかった時、現場にはいなかったね?
友成 はい、そのことは台湾で日本の新聞を見て初めて知ったのです。もう、いてもたってもおられなくて、早速その日の飛行機で帰ってきました。乗っていても飛行機がのろくって「ちくしょう! 早く着かないかなあ」とばかり思い、いらいらしていました (笑)。
森本 そりや残念でしたね。ところで東さんは、古墳の中に入って壁画を見られたとか?
∧小さな身体をありがたいと思った∨
東 ええ、私は体が小さいので得をしました。私、体の小さいことをいつも恨みに思っていましたが、今回に限っては非常に感謝しています(笑)。この前テレビにも出させてもらいましたが、両親がもう喜んでしまって・・・・。私、大へんな親孝行をしたんですよ(笑)
森本 東さんは新聞にも大きく出ていましたね(「毎日新聞」昭和四十七年四月十日)。それにしても最近の新聞は連日高松塚のことばかりのっていますが、このような長期にわたる報道は珍しいと思いますが?
網干 とにかくこんな壁画が発掘されたのは初めてですから。学問的にも一般の人の関心も高まるのは当然ですからね。
直宮 僕は今度の発掘で、先入観でものを考えてはいけない、ということが分りました。いままでどのように言われていようと、またどんな小さい古墳であろうと、やっばり慎重に発掘しなければいけないと思います。
塚口 そうですね、発掘というものは、ある意味から申しますと文化財の破壊をも伴いますから、何も高松塚古墳だけに限ったことではなく、どんな小さいものであろうと、やはり慎重な態度でなければならないと思いますね。
今井(康) その点、今度の末永先生や、網干先生の処置は全く適切であったように思います。
∧ああ、壁画だ!∨
森本 この発掘は三月一日から始められたのですか?
網干 ええ、本格的にはね。しかし実際には一咋年の十月頃から始まっているんで
す。あの三月一日の日は明日香でも珍らしいほどの大雪でして、十五センチほど積ったでしょうか。それで結局その日は高松塚古墳とその周辺遺跡を踏査するだけにして、本格的な調査は中止しました。二日目から高松塚の竹を伐採し、本格的な調査に乗り
出したんです。
久井 初め、あんな見事な壁面が出ると思いましたか?
藤原 全く予期しませんでしたね。
直宮 初めに見た状態では、後期古墳であるということは分りましたが、果たしてどういうものであるか、さっぱり見当がつきませんでした。かなり以前に文武陵に比定されたこともありましたから、重要な古墳だとは思っていましたが・・・・。
今井(康) 出土遺物の状況によって、発掘意欲も大分ちがいますか?
直宮 はい、実は初めの頃、余り何も出てこないので少しガッカリしていたんです。ところが途中で木の破片が出てまいりまして、それを大事にとっておいたんです。と言いますのは、ちょっと冗談のつもりで松本君に「乾漆棺が出てきたぞ!」と言ったことが本当になってびっくりしました。
網干 それからはもう皆んな、すごくはりきったね(笑)。∧注、『会報』三十一号五三~五五ページ参照∨
吉田 壁画が見つかった時、網干先生はどんなご様子でした?
松本 ええ、もうソワソワされまして・・・・(笑)。
石田 声もうわずっていましたよ(笑)。
網干 壁画が見つかってからはもう大へんでした。まずご飯を食べに行っている学生たちを呼びに行かせたのですが、それも「壁画が見つかった」てなことを大きな声で言うと、一遍に分つてしまって仕事ができなくなるので、「黙って現地にもどってこい!」ってなことで、ひじょうに気をつかいました。
東 私は最初、余り網干先生がソワソワしておられるんで「何事かな?」と思いました。
吉田 他の人もびっくりしたでしょう?
中上 私は、「壁画が見つかった」と言っても、最初は「へえ?」と思っただけで、余り何とも思いませんでした。むしろ後でびっくりしたぐらいで・・・・(笑)。
吉田 そうでしょうね。すぐにはピンとこない?
亀島 ええ、それより僕は余り大勢の人がこられましたんで、それにびっくりしました(笑)。
森本 その日の夜は、かなり遅くまでミーティング(討論)されたのですか?
網干 ふつう発掘の時には、宿舎に帰るといつもミーティングをするようにしているんです。その晩はいつもより熱が入り、一時頃までやったでしょうか。それからもほとんど毎晩、その位の時間までやりましたよ。海獣葡萄鏡や大刀の外装の話などをね。
直宮 それから、他の装飾古墳との関係もだいぶ問題になり、議論しました。海獣葡萄鏡も古墳出土のものが確実にあるかどうかを確かめる必要があるので、壁画と共に、国内のものは勿論のこと、大陸や半島のものも調べよう、って話し合いました。
石田 今度の調査の場合、他の古墳調査と違って天文学や美術史なども関連してきますので、ミーティングも皆んな一生懸命になってやりました。勿論ふだんでも熱の入ったものですけど。
網干 こう言うミーティングを繰り返していると、非常に実力がつくんですよ。
∧発掘調査で困ったこと∨
森本 発掘調査をしておられて一番困ったことと言うと、どのようなことがございましたか。
石田 遺物をどのように保存すればよいのか、大へん困りました。とくに乾漆棺の破片などはねえ。それと、やはり精神的な苦労がありましたですね。
吉田 と言いますと?
直宮 見学者が次から次へとやってきて「見せろ! 見せろ!」って言うんです。われわれが「保存の関係でお見せするのは無理なんです」と言うと非常に怒ってしまって・・・・、これには全く閉口しました。
網干 しかし君ら、一生懸命になって説明していたね。
直宮 ええ、あの人らの熱意に負けたんですよ。「わしは九州からすっとんできたんだから・・・・」ってなこと言われて・・・・。しかし実際に遠方からこられた人もかなりあったようです。
石田 だから、最初のうちだけは熱心にね・・・・(笑)。けれど、見学者が後から後からこられるので、だんだんいやになってきまして・・・・、それにかなり疲れてましたし。その時に一番おもしろく感じましたことは、現地で一人の見学者が他の見学者に説明していたことです。真剣な顔つきで、しかもかなり無責任な説明をね。それを聞いた見学者はまた他の人に説明してるんですよ (笑)。
村井 ヨッパライがやってきて困ったこともありました。
石田 ヨッパライが、「おまえらは金儲けで発掘してるんやろ!」ってなことを言うんです。僕らはもちろん、そんな気でやっているのではありませんから、大へん腹が立ちました。発掘の意味を少しでも理解してほしいと思いますね。それに、古墳を築いた土の固かったこと。掘っていると、すぐに肩の筋肉が痛くなってくるんです。あくる日になっても、なかなか疲れがとれなくて、とにかくあんな固い版築は初めてですね。
∧学問をする態度∨
末永 東京から帰って発掘現場へ行った時のことですが、古墳の前を見ると、切り竹の中に十本ほどのタバコを入れて立ててあったことがありました。「あれは何か?」と学生たちに尋ねると、「あれは東さんの誕生日のプレゼントの資金集めとして、タバコを吸った人は代償に何か置かねばならない申し合せをしたんです。いつもあんなことをしているんじゃないんです」と言う。そのタバコの話はそれとして男子学生も女子学生も皆んなドロンコになって一生懸命にやっており、私は学生たちを「可愛いなあ」と、つくづく思いました。今でもこのことを思うと、私はもう、うれしくてうれしくてたまらないのです(笑)。
久井 以前に聞いた話なんですが、末永先生は単に研究指導だけではなく、合宿に行っても箸の上げ下ろしまで厳しくされたとか?
網干 そうなんですよ。大三島に行った時も、かなり厳しくされました。学生はもとより、確か五十五才をすぎた玉木さん(強・河内長野市史編纂員)まで、襖の閉め方を講義されましたよ。あとで玉木さん自身、「よい勉強になった」と言っておりましたが。
末永 学生は窮屈に思ったでしょうが、前にこんな話がありました。われわれが泊ってから少し後に、東京のある大学の学生が同じ宿に泊ったのです。夜になると、彼らはゆかたがけで下駄をはいて町にブラブラ出かけ、帰るのはいつも十一時をまわっていたと言う。甚だしいのは二時頃に帰る者もあったりして・・・・。それに比べると「関大の学生さんは礼儀正しいですね」って旅館の主人が言っておられました。横田さん(本学文学部教授)に言わせると「学生が先生に叱られてベソをかく顔を見るのはしょっちゅうだ」ってね。私自身、極め付ける時には極め付けて、遊ぶ時には遊ぶようにしなければいけない、それが学問をする者の第一に心掛けるべきことだと思いますね。
藤原 先輩に聞きますと、先生は最近、大分やさしくなってこられたとか? まあ、厳しい教育を受けることもいいですね。
∧考古学をやりはじめた動機∨
末永 石田君は考古学をやっているが、確か法学部じゃなかったかね?
石田 はい、法学部で行政法を専攻しております。僕は高校時代から考古学がすきで、大学へ入ったら必ずやろう、と決心していました。ところがどうしたわけか・・・・、まあ、早く言えば試験に落ちたんです(笑)。ところがちょうど一年生の時に網干先生の日本史の授業がありまして、そこで先生に言って研究室に入れていただいた、というようなわけなんです。当時の僕には発掘に行くことしか頭の中になかったんです。今もそうですが・・・・(笑)
末永 「二兎を追う者は一兎をも得ず」って昔から言うが、やはり行政法をやりながら考古学も研究してほしい。
森本 女子の方はどうですか?
中上 私は、ただ何となく「考古学をやろうかなあ?」と思って研究室に入りました。今では、やってよかったなあと思っています。
森本 松本君の場合は、どうでしたか?
松本 僕の場合は、中学時代に郷土研究クラブというのがあって、それに参加してました。確か二年生ぐらいの時に将軍山古墳の発掘に行きましたが、これが考古学を勉強するきっかけとなったんです。それに、僕の中学の時の先生が薗田先生(本学文学部教授)と知り合いで、その関係から考古学研究室に出入りするようになったんです。
森本 それでは皆さん、もう時間もまいりましたので、この辺で終りたいと思います。長時間どうもありがとうございました。今後も、ますます勉学にお励みください。
〔記録担当者 塚口義信〕
高松塚古墳の発掘日誌抄録
〔森岡秀人君(文学部史学科三年次)の調査日誌から抜粋〕
四十七年三月一日 雪
調査団先発隊現地到着。雪のため調査中止。高松塚古墳現地踏査。飛鳥・桧前地域の周辺遺跡踏査。会計その他事務手続完了。器材搬入。
三月二日 晴
調査器材の現場搬入。調査開始。竹林の伐採開始。高松塚及び周辺遺跡の現状(遠景)写真撮影。午後より基準杭・区画設定を行う。墳丘東方より平板実測を開始す。
三月三日 曇
遺跡の遠景写真撮影続行。基準杭設定も続行。測量調査軌道に乗る。
三月四日 雨
平板実測・基準杭設定ともに続行。夜第一回総合ミーティングを開く。
三月五日 晴
二班に分れて地形実測続行。遺跡の近景現状写真撮影を行なう。
三月六日 晴
午後より慰霊祭、クワ入れ式。平板実測続行。明日からの発掘に関する現地ミーティングを行なう。竹林伐採作業、とくに墳丘部を進める。
三月七日 晴
ショウガ穴の切石を横穴式石室羨道部側壁と想定し、発掘を開始。試掘壙は仮(かり)南(みなみ)トレンチと仮称する。表土・Ⅱ層除去。平板実測は並行して続行。
三月八日 曇
乾田・畔を中心に地形実測続行。基準杭間の間接距離測定。午後、仮南トレンチにおいて凝灰岩切石を検出。第Ⅰ区及びその東をほぼ完掘する。
三月九日 曇
仮南トレンチ第Ⅰ区北壁土層断面実測図作成。トレンチ配置図も作成開始。その後、第Ⅱ区荒掘りを開始、版築らしきものを確認する。
三月十日 晴
発掘・測量両班に分担して調査続行。
三月十一日 曇
仮南トレンチの発掘は、第Ⅱ区より第Ⅲ区へ移る。その際、漆塗木棺片を検出する。また、本日、盗掘壙を明確に把握する。
三月十二日 曇
昨日検出の乾漆棺片出土状況実測図を作成。トレンチ内基準線も設定。
三月十三日 曇
仮南トレンチ第Ⅲ区とⅢ区西の北壁で盗掘壙ホリカタを確認、断面実測す。盗掘壙内からは乾漆棺片の他、瓦器片、凝灰岩片などが出土する。
三月十四日 曇
墳頂部平坦面に第Ⅳ調査区を設定、発掘の結果、表土下で石塔残欠、平石などの中世と思われる遺構を検出する。測量調査はずっと続行。
三月十五日 晴
仮南トレンチ第Ⅳ区荒掘り。Ⅱ・Ⅲ区盗掘壙の精査。
三月十六日 晴
盗掘壙内攪乱層の下層検出、実測。第Ⅲ―Ⅳ区間の粗掘り。
三月十七日 曇
仮南トレンチ第Ⅳ区の掘り下げ、測量続行。
三月十八日 快晴
仮南トレンチ内検出の盗掘壙清掃、写真撮影。このとき、初めて主体部らしきものの一端を確認する。
三月十九日 曇
盗掘壙ホリカタの平面実測図作成。主体部の明確な切石面及び開口部らしきものを検出する。
三月二十日 雨
午前中のみ調査を実施。明日からの埋葬主体部検出に備えてトレンチ前庭部を若干発掘するにとどめる。
三月二十一日 晴
午前中、埋葬主体部の試掘を始める。正午過ぎ、家形横口式石槨の南壁部を検出、盗掘箇所を確認、その後、極彩色の壁画を発見す。午後、主体部の確認と、その前方を発掘、盗掘壙底面を確認する。
三月二十二日 晴
地形実測はこの日より中断、調査員全員、発掘に専念する。石槨(埋葬施設)内部の調査を開始、清掃発掘とともに検出遺物の実測を行なう。人骨、刀装具、ガラス小玉、釘などが次々と検出される。便利堂写真撮影。
三月二十三日 曇
石槨内部の調査続行、棺材の実測及び取り出し。午後、海獣葡萄鏡が出土、棺金具などを検出する。調査員全員、夕刻に石槨内部を観察する。
三月二十四日 雨
京都の便利堂、石槨内部第二回目の原色写真を撮影。埋葬施設の公式測定値の計測。非公式発表。夜、第二回総合ミーティング。
三月二十五日 曇
石槨内排土の精査。墳丘東方に東トレンチ設定、表土除去より発掘開始。
三月二十六日 曇
墳丘周辺の清掃。のち一時より公式発表。末永雅雄先生視察、記者会見。報道関係者取材。夜、テレビで公表される。
三月二十七日 晴
各社新聞一斉発表。調査続行。
三月二十八日 晴
仮南トレンチ石槨南方の溝状遺構追求。人骨鑑定。底石の確認。
三月二十九日 曇
網干先生入院される。排土精査。南・東各トレンチ発掘続行。
三月三十日 雨
壁画模写決定。各作業続行。
三月三十一日 雨
東トレンチを東方へ拡張、裾まわり溝の有無確認に努力す。
四月一日 曇
東トレンチ東端部でついに地山洪積層検出。遺物包含層の確認。南トレンチでも細い試掘壙を二~三本入れ、正方形切石などを追求す。
四月二日 晴
南・東両トレンチで、墳丘築造状況を精査、見学者非常に多し。
四月五日 快晴
第一次調査終了。
四月八日 快晴
明日香村観光会館にて慰労会。
(『会報』第三十二号、関西大学敎育後援会発行、一九七二年、より)
*四神図は関西大学博物館の復元図を使用させて
いただきました。