5世紀のヤマト政権下における武器と軍事制度
つどい251号
5世紀のヤマト政権下における武器と軍事制度
池田市立歴史民族資料館 館長 田中晋作先生
①画面をクリックすると拡大します
②
③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
以下検索用テキスト文
漢字変換の制限により文字化けする場合があります。
新年のご挨拶
池田市立歴史民俗資料館 館長 田中晋作
新年あけましておめでとうございます。
皆様にはおすこやかに新春をお迎えのことと存じます。
さて昨年は、アメリカのサブプライムローン問題に端を発した経済危機は瞬く間に全世界を席巻し、堅調さを取り戻しつつあった日本経済にも大きな打撃を与えることになりました。さらに国内政治の混迷により、閉塞感に包まれた年明けとなりました。
このような暗いニュースの中で、創設二十周年を迎えられた豊中歴史同好会が新たな飛躍の年をお迎えになりますことは、まことにご同慶の至りでございます。これも皆様方の日ごろからの熱心な取組みと研鑚の賜物と心から敬意を表します。
創設二十周年を記念したシンポジウム「五世紀のヤマト政権を探る」が盛会に開催されますとともに、貴会益々のご発展を祈念し、新年のご挨拶といたします。
五世紀ヤマト政権下における武器と軍事制度
池田市立歴史民俗資料館 館長 田中 晋作
一.はじめに
五世紀の日本列島において、軍事上もっとも注目すべき現象は、形状・機能が統一されたいわゆる定型化した甲冑の広い分布がみられることと、堅牢な防御施設をもった城塞がみられないことである。
定型化した甲冑は、四世紀末以降、百舌鳥・古市古墳群の勢力のもとで、製品として導入されたことにはじまり、その後の開発・生産、さらに、供給まで一元的に行われていたと考えている。また、五世紀に入り、攻撃用武器を含め装備全般の機能が急速に向上し、とくに定型化した甲冑は五世紀半ばないしは後半以降、西日本を中心により広い階層にまで浸透していく。
一般に、形状・機能が統一された武器の供給によって編成された集合性の高い軍事組織は、指揮権の確立した組織を生み出す要因になるとともに、権限が集中した比較的少人数による支配を可能にすることが指摘されている。とくに、軍事活動が遠隔地で、かつ長期間にわたって行われる場合にはその傾向がいっそう強くなる。
また、定型化した甲冑を中心とする装備が、各勢力の自弁ではなく、百舌鳥・古市古墳群の勢力から供給されたものであったことは、これらの武器を受容した諸勢力を両古墳群の勢力のもとに集約させる大きな要因になる。さらに、主要な武器の独占的な生産と供給、装備の複雑化に伴う生産コストの上昇は、必然的にその主体者である両古墳群の勢力の権威を高めるとともに、これらを装備する軍事組織をより厳格に統制する基盤を整えることになったはずである。同時に、武器の生産において、素材の確保や生産組織が有効に統制されている場合、生産の独占を容易にするとともに、その規模が拡大する傾向をもつ。これに加え、機能更新のサイクルの短縮化は、ひとつには装備の消耗の早さを示しており、形状・機能が統一された武器による武装をよりいっそう促進させることにもなる。
一方、列島において堅牢な防御施設をもった城塞がみられないことは、各勢力間に長期間にわたる深刻な軍事的対峙が生じていなかったことを反映したものである。また、領域境界に対する認識の問題もあるが、領域境界線上に防衛ラインとなるような防塁などを設けた形跡がみられないことは、各勢力が守るべき長い前線をもたなかったことを示している。定型化した甲冑が共通してみられることや、攻城用の武器や器具がみられないことも、これらの現象と整合する。
軍事学的な視点からすれば、五世紀の日本列島におけるこのような軍事的特徴は、防衛を主眼としたものではなく、攻撃を優先する体制を基本として軍事組織が編成されていたことを表している。
以上の内容は、同一もしくはきわめて親縁な関係にあったと考えている百舌鳥・古市古墳群の勢力の軍事的優越性を示すことによって、もっとも合理的に説明することができる。本稿では、この優越性を常備軍の存在をもって明らかにしたい。
なお、古墳に副葬・埋納された武器は、埋葬に際して行われたであろう儀礼に使用されたものも含めて、当時の武装もしくは武器の所有形態を反映したものである。武器をはじめとする各種物品の副葬・埋納は、その行為自身は廃棄であるが、その廃棄が無作為にではなく、当時の状況を反映した一定の規範に則って行われたとの視点に立って進める。また、古墳に副葬・埋納された武器の多くは、実用であると考える。
二.常備軍成立の可能性
さて、ここでいう常備軍は、畿内およびその周辺地域の武人的性格を兼ね備えた多くの古墳被葬者とは違った人々によって編成され、最新の機能を備えた武器によって武装した軍事組織をいう。また、この常備軍は、有事に際して緊急に編成されるのではなく、平時においても、彼らが所属する百舌鳥・古市古墳群の勢力の中核を占めた者、もしくは特定の組織のもとで維持され、人格的忠誠関係にもとづいて、その意図によって展開するという特殊な役割を担ったものであると考えている。しかし、常備軍は、その成立と同時に広範な地域に敷衍されたものではなく、後述するように、当時としては、百舌鳥・古市古墳群の勢力のもとにのみ存在したと想定している。ただし、この常備軍は、両古墳群の勢力の台頭当初から存在していたのではなく、その影響力の伸張の過程で成立し、両古墳群の勢力が一定の影響力を保持していた期間にのみ存続したもので、百舌鳥古墳群での古墳築造停止、古市古墳群での相対的な衰退に連動し、その姿を変えたと考えたい。
武器組成の類型化
まず、常備軍が存在したことを定型化した甲冑を含む武器組成の違いを手がかりにして明らかにしてみたい。古墳に副葬・埋納された甲冑を含む武器の組成を、大きくつぎの三つの類型に分類する。
①「大塚古墳型」
桜塚古墳群大塚古墳を指標として設定
したもので、甲冑一組もしくは甲一領に対して一本ないし複数の刀剣、長柄の武器、数群までの鉄鏃(あるものはさらに盾などを含む)を基本とした武器組成で、古墳被葬者を頂点とする武装を示す。
②「野中古墳型」
古市古墳群野中古墳を指標として設定したもので、甲冑一組に対して単数の攻撃用武器で構成され(遺物第一列・同第二列)、戦時・平時を問わず、常時維持された組織に貸与するために備えられた武器組成で、「常備軍」の存在を示す。
③「西墓山古墳型」
古市古墳群西墓山古墳を指標として設定したもので、同種多量の攻撃用武器から構成され、戦時もしくはそれに類する社会的緊張時に緊急に編成される組織に貸与するために備えられた武器の保有・備蓄を示す。
「大塚古墳型」は、有力古墳を含め一般に武人的性格をもつ古墳で広くみられる。これに対し、「野中古墳型」は、野中古墳以外では、大阪府黒姫山古墳前方部竪穴式石室と可能性が考えられる百舌鳥古墳群七観古墳を除いて確認できない。この現象が、常備軍が両古墳群の勢力のもとにのみ存在していたと推定する根拠のひとつである。また、「西墓山古墳型」は、限られたものとはいえ、百舌鳥・古市古墳群以外の大型古墳群や有力古墳でもみることができる。
ところで、「野中古墳型」の古墳に埋納された武器が、常備軍の成員に貸与されるべきものであるとすれば、野中古墳(遺物第一列・同第二列)や黒姫山古墳前方部竪穴式石室に埋納された武器組成は、あくまでも基本単位であって、その倍数で組織の大きさを計る必要がある。他の型に比べ、その組織の規模がはるかに大きなものになる可能性がある。
ここでは、「野中古墳型」の古墳に埋納された武器は、常備軍を統括した、もしくは組織
の中核にあった人物の埋葬に際して、両者の密接な関係を示す目的で、その装備の単位
が一括して埋納されたと考えておきたい。ただし、「野中古墳型」をもって常備軍の存在
を想定しているが、藤田和尊氏らから批判も出されており、必ずしも多くの賛同を得た
ものではない。
百舌鳥・古市古墳群の武器組成
甲冑を含む武器組成を以上のように分類すると、古市古墳群では、複数の「大塚古墳型」だけではなく、ある段階からは、「野中古墳型」と「西墓山古墳型」の古墳が併存する。「大塚古墳型」と「野中古墳型」、さらに、「西墓山古墳型」の古墳が同一古墳群で併存する事例は、現在のところ、古市古墳群と、可能性が考えられる百舌鳥古墳群以外では認められない。
このように、重層的な武器組成をもつ古墳を傘下におさめた百舌鳥・古市古墳群の勢力が、いかに大きな軍事組織をもっていたかを改めて知ることができる。さらに、後述する桜塚古墳群東群のように、両古墳群の勢力と密接な関係をもつ新興中小勢力がこの中に組み込まれていたとすればその軍事組織の規模はさらに大きなものになる。「大塚古墳型」の古墳で構成される桜塚古墳群東群は、その被葬者たちが所属する両古墳群の勢力のもとで、とくに戦時において、両古墳群の勢力を中核にして編成されるであろう、より大きな軍事組織の主要な部分を構成したと考えている。ただし、畿内およびその周辺地域だけを対象にしても、「大塚古墳型」を採るすべての古墳被葬者が、同様の性格をもったとするものではない。
三.桜塚古墳群東群の複数埋葬施設と武器組成
つぎに、軍事に特化したと考えられる古墳被葬者の出現を手がかりにして、五世紀における軍事組織の変化について考えてみたい。
まず、表1に示した桜塚古墳群東群の主要古墳における副葬品の構成をみてみよう。大塚古墳に続く御獅子塚古墳以降、狐塚古墳・南天平塚古墳・北天平塚古墳の時間的な序列は明確ではないが、各埋葬施設では、副葬品全体に占める武器の比率が急速な高まりをみる。これに対し、農工具をはじめとする他の副葬品は、ごくわずかか、もしくは副葬されない状況へと推移している。これは、本群の副葬品構成が、甲冑を含む組成として整った武器や馬具の副葬に特化していく過程を示している。また、それぞれの古墳にはふたつの埋葬施設が設けられ、甲冑を含む組成として整った武器が副葬されながら、一定の格差がみられる主たる埋葬施設とこれに準じる埋葬施設が併存している。ただし、本群を構成したすべての古墳が同様であったわけではない。
つぎに、本群における農工具の出土状況に注目し、これが古墳時代前期以来一般にみられる農工具の副葬ではなく、武器組成に組み込まれた農工具として副葬されていた可能性を指摘したい。
大塚古墳第二主体部での農工具の出土状況は、西槨では、多種多様な農工具が棺外西側に一括して副葬されていたのに対して、東槨では、表2に示したように三群から構成される武器組成に組み込まれる形で、それぞれ一本の刀子が副葬されていた。大塚古墳につづく御獅子塚古墳では、第一主体部で、数量は大塚古墳西槨に劣るが、多様な農工具が棺内南半で矢柄を挟むような状態で出土している。ところが、第二主体部では、武器に特化した副葬品構成になっており、農工具が含まれていない。また、狐塚古墳でも東側棺では農工具の副葬がみられず、西側棺で少量の農工具が武器とともに副葬されていた。さらに、南天平塚古墳と北天平塚古墳でも同様の状況が認められ、重厚な武器の副葬に対して、きわめて少量の農工具が副葬されているだけである。これらの農工具は一般にみられる農耕や各種生産を象徴する農工具の副葬ではなく、武器組成に組み込まれた農工具の存在を示している。このような現象は、武器の副葬の特化とともにきわめて重要な現象である。ここでみられる農工具が、関川尚功氏が指摘されているように、移動や駐留を伴う軍事活動への対応を想定したものとすれば、本群の勢力が、計画的で、長距離・長期間の軍事活動に携わった勢力であったことによって生じた現象であると考えられる。
また、本群では、時期を追うごとに墳丘規模が縮小傾向をみせるにもかかわらず、甲冑を含む武器を中心にした二つの埋葬施設を設けた古墳が、継続して築造されている。つまり、武器に特化した副葬品をもちながら、一定の格差が認められる二つの埋葬施設の併存に反映された人的関係の継続が、本群の勢力の特質としてあげることができる。
ここで注目したい点が、亀田修一氏が指摘している、鎹(かすがい)を使用した木棺の存在である。現時点では、鎹の使用は、大塚古墳に続く御獅子塚古墳の段階からはじまり、御獅子塚古墳第一主体部・同第二主体部、南天平塚古墳一号棺で、その使用がみられる。また、北天平塚古墳では、盗掘を受けていた上層の埋葬施設は不明であるが、下層の埋葬施設では釘と報告されているものが鎹である可能性が指摘されている。亀田氏は、鎹は韓国金海や釜山、昌寧などの伽耶東南部地域との関わりの中で受け入れられた可能性を想定されており、本群以外でも武器の副葬に特化した古墳や、組成として整った武器が副葬された古墳で鎹の使用がみられる。
牽強付会との批判を受けるかもしれないが、本群の勢力は、継続した複数の埋葬施設の併存と、計画的で、長距離・長期間の軍事活動に対応できる武器組成に特化した副葬品構成に、鎹を使用した木棺の存在を介在させることによって、半島東南部地域ときわめて軍事色の強い関係を継続してもっていたと考えたい。本群の勢力は、百舌鳥・古市古墳群の勢力のもとで軍事に特化した役割を担い、その役割を継承、拡大していくことが求められたものといえる。同時に、両古墳群の勢力のもとに、このような集団を制御していくために、これを超える軍事組織が存在していなければならないことになる。
四.後出古墳群でみられる武器組成に組み込まれた農工具
中期の畿内およびその周辺地域では、桜
塚古墳群東群以外にも、武器組成に組み込まれた農工具の副葬がみられる。駐留や移動を伴う計画的で、長期間、長距離の軍事活動に対応できる勢力が他にも存在していたことを、後出古墳群を取り上げて明らかにしてみたい。
後出古墳群では、十三古墳で埋葬施設が検出され、3号墳と7号墳がTK23型式段階、他はTK47型式段階の築造と報告
されている。本古墳群は、首長墳の継続的な築造によって構成された古墳群ではなく、五世紀後半のきわめて短期間のうちに、規模・内容が異なる複数の古墳によって構成されたものである。とくに、小規模な古墳群でありながら、重厚な武器の副葬に特化した埋葬施設が含まれている。
各埋葬施設の副葬品の内容を表3に示した。とくに注目したい点は、2号墳と3号墳第一主体部で出土した農工具の構成とその出土状況である。2号墳では、棺外南西小口におかれた短甲の中に右前胴部分をはずして入れ、さらに、鉾二・鉄鏃一とともに大小の鉄斧各一・鎌一・ヤリガンナ一・鑿一・鉄斧二が収められていた。また、同様の出土状況が3号墳第一主体でもみられ、短甲の中から鎌一と、鉄鏃とともに刀子一が出土している。このような出土状況は、奈良県ベンショ塚古墳第二埋葬施設などでもみられ、共通した農工具が一定量みられるわけではないが、通常の農工具の副葬とは明らかに異なるものである。桜塚古墳群東群を含め、このような武器に特化した副葬品構成の出現は、軍事組織の規模の拡大や軍事的指向性に伴って出現したものと考えられる。
しかし一方で、卓越した武器とともに、依然として一定の品目と量の農工具が武器から分離一括された状態で副葬されている古墳も多く存在する。武器の副葬が卓越するすべての古墳において、農工具が武器組成に組み込まれていたということではない。それぞれの勢力、または、それぞれの古墳被葬者が担った役割の違いによって顕在化した現象である。
五.常備軍の具体的な事例
さて、本来の論旨から少し離れるが、永和十三年(三五七)に没した冬寿を葬った高句麗安岳3号墳の廻廊東壁、および、北壁に描かれた出行図を参考に、部分的ではあるが、四世紀半ばの高句麗の有力者がもった軍事組織についてみてみよう。
この出行図には、古墳被葬者が乗る牛車を中心に、二百五十人以上の人物が描かれている。本図で注目したいことは、牛車を守るように配置された騎兵・歩兵・鼓吹隊の隊列である。鼓吹隊を先頭に、一騎の騎兵、これにつづいて、左右に同数の節・幡・旆を携えた歩兵、挂甲を着装して盾と鉾・挂甲を着装して盾と環刀・斧鉞・弓でそれぞれ武装した歩兵を配し、その外側に挂甲を着装し長い鉾をもった重装騎兵が描かれている。さらに、牛車の後方にも騎兵が配され、あるものは、蓋を携えている。ここに描かれた多様な兵種から構成された部隊は、彼らが採る戦術、つまり、一定の戦闘方法が確立されていたことによってこの隊列が組まれていたことが明らかである。また、各兵種を構成する兵士の装備は、統一された形状、機能をもったもので、とくに歩兵の場合、これらの装備が各兵士による自弁ではなく、供給されたものであったことが考えられる。つまり、ここに描かれた
部隊は、厳格な指揮命令系統のもとに統制され、恒常的な軍事的訓練を受けた武装組織、常備軍である。本壁画が、四世紀中ごろの高句麗の有力者がもった軍事組織の全容を正確に描出しているという裏付けはないが、常備軍が存在したことを示すきわめて重要な資料である。むろん、列島でみら
れる武器組成や出土状況からは、ここまで
整った軍事組織の存在を推定することはできない。
また、時期は下がるが、韓国九宜洞堡塁などの調査によって、五世紀半ばから六世紀半ばに、漢江流域の前線に駐留した高句麗軍の装備が明らかにされ、その成員が二千名にもおよぶと推定されている。このような前線に配備された駐留軍の存在と堡塁などの施設からみて、半島におけるこの段階の軍事活動が、大規模で長期間にわたるものであったことがわかる。
六.五世紀の軍事的特性
以上の内容から、百舌鳥・古市古墳群の勢力が、その維持にきわめて大きなコストを要する常備軍を必要とした要因を、対国内的な視点と対国外的な視点から考えてみたい。
まず、対国内的要因である。これには二つのことが考えられる。まず一つが、政権内の主導権掌握に伴う緊張状態の克服という要因である。紙面の関係で詳しく述べる余裕はないが、百舌鳥・古市古墳群の勢力が大和盆地東南部の勢力や佐紀・馬見古墳群の勢力との間に生じた確執を克服するために必要とした軍事力の強化である。
もう一つは、百舌鳥・古市古墳群の勢力内での首長権の強化に伴う要因である。とくに、鋲留甲冑が出現する五世紀半ば以降、両古墳群内でみられる「大型主墳」と「中型主墳」・「小型主墳」との格差の拡大は、首長権が急速に強化されたことを反映するひとつの現象である。つまり、両古墳群の首長が、勢力の構成者である武人的性格をもった各古墳被葬者の意志を勘案することなく、自らの意図をより自由に、より強力に行使する基盤の整備が、直属の軍事組織、
常備軍によって図られたものと考える。
つぎに、今回の発表の対象とした対国外
的な要因である。全国的な視点でみれば、
五世紀半ばないしは後半を境にして、西日本を中心に甲冑出土古墳が増加する。とくに小規模な円墳からも最新の機能を備えた甲冑の出土例が急速に増加する現象は重要である。このような武器の供給は、より多くの人々をそれまでにはない、統一された形状と機能をもつ武器で武装させることを可能にしたわけで、西日本をはじめとする各地域の勢力を、より大きな軍事組織へ動員することができる条件を整えようとしたものと考えられる。とくに、特定勢力でみられる急速な武装化と、移動や駐留に対応することができる農工具が組み込まれた武器組成の出現は、長期間の戦争状態、ないしは社会的緊張のもとで、十分な軍事活動を行いうる組織的で、恒常的な訓練を受けた軍事組織の存在を示しており、このような体制は遠隔地における長期間の軍務の必要性によって生みだされたものと考えられる。定型化した甲冑の当初の製作地がどこであったかという問題をおくと、半島での同種の甲冑の出土例の増加は、この地域での軍事活動が含まれていたと理解すべきである。
ここで注目されなければならないことは、四世紀に入って以降の東アジア情勢である。とくに、三六九年の高句麗と百済の軍事的衝突、四世紀末から五世紀初頭の高句麗広開土王の南下、さらには、四七五年の高句麗の攻撃による百済漢城の落城などである。このような半島情勢によって、当時の倭が武器の機能向上と生産の拡大、また、整備された軍事組織の確立を緊急に図る必要性に迫られたことは、容易に推測できる。
ところが、関係勢力に武器を供給することは、自らの地位の保全と勢力拡大という側面をもつ反面、同時に、自らが自らを脅かす要因を生み出していることに他ならない。桜塚古墳群東群や後出古墳群などでもみられるように、百舌鳥・古市古墳群の勢力が、自らの存亡をかけて、最新の機能を備えた武器の供給に踏み切るためには、既述したように、これら諸勢力の軍事力を圧倒する強大な軍事組織の存在が欠かせない。これが本稿でいう常備軍にあたる。
このように、百舌鳥・古市古墳群の勢力が目指した強大な軍事組織の整備は、当面の課題とした、畿内およびその周辺地域での主導権掌握に際して生じた緊張状態の克服と、勢力内での首長権の強化という対国内的な要因によってはじまる。これにつづき、当時の東アジアにおける軍事的緊張という対国外的な要因に対処するために、計画的で、長距離・長期間にわたる大規模な動員に対応できる体制の整備を図ろうとしていたと考えられる。武器の大量集積による威圧や、突発的で、近距離・短期間の軍事活動への対応だけではなく、半島を含む遠隔地での軍事活動に対応できる、より大きな整った軍事組織の編成の必要性である。これを実現するための条件が、可能性として七観古墳の段階以降に整えられた、人格的忠誠関係に基づいた常備軍である。
さて、二〇〇〇年を前後するころから古墳に副葬・埋納される武器、とくに定型化した甲冑についてさまざまな解釈が提示されるようになった。しかし、本稿で示したように、百舌鳥・古市古墳群出現以降にみられる軍事的特徴は、軍事学的な視点からすると、以上のようにきわめて合理的に説明することが可能であり、さらに、この方法によって検討を進めていきたい。