豊中歴史同好会の20年(1)(2)
つどい255号
豊中歴史同好会の歴史(1)
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つどい255号
豊中歴史津公開の20年(続)
会員・相談役 西垣健一
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豊中歴史同好会の20年(1)(2)
相談役 西垣健一
つどい252号
豊中歴史同好会の20年(1)
当会の発足は一九八八年(昭和六十三年)の十月、二〇〇八年の十一月で満二十年を越えたことになります。
また、会報の『つどい』も同じ年の十一月に始まり、一回の欠落もなく二百五十号に到達(月二回の発行を含む)致しました。
設立発起人八名(今は三人のみ残存)の一人としてまことに感慨深く、今日まで様々のご指導・ご援助をいただきました内外多数の方々に心から厚く御礼を申し上げます。
設立発起人の一人が当時の蛍池公民館・辻正彦館長に、古代史や考古学のグループを設立したいと相談したのが同年の春。
私が館長から「是非参加して欲しい」とお誘いをいただいのは少し後の五月であったかと記憶しています。更に館長の肝煎りで三人の女性が加わり、設立発起人八名が勢揃いできたのは六月末頃でした。以後色々と協議を重ね、また分担推進しと、兎に角忙しく暑い一夏でありましたが、大変早く過ぎたと記憶しています。
総じて公民館は女性の活動が目立つところですが、このお三方は大変ご立派。女性幹事が優秀で発想に富み、責任あるしっかりとした仕事をされる美風は実にこの暑い夏から始まり、今日まで、変わりなく続いていると私は喜んでいます。
当時私は「豊中陶芸会」の代表で、公民館と館所属各グループの疎通に係わる「グループ連絡協議会」の副会長を努め、館長とは近い間柄になっていました。
また、市の各公民館や文化財関係の方々による「講座」や「現地説明会」等を通じて、関係の方々とはそこそこの面識も生じていました。
更に大阪市内北区で開かれていたアマチュアの考古学勉強会「古代を偲ぶ会」に入り、何年か経過した頃。仕事の都合もあって出席は決して良くない状況でしたが、リーダーの石川昇さんから度々強いお誘いをいただき、観念してお供をすることが多くなっていた頃でした。
私事を申し上げて恐縮ですが、五月は丁度定年退職をしたとき、気持ちを改めて「歴史同好会」の発足に臨んだ次第です。
準備段階で定めた大切なことは二つほどありました。その一は例会のあり方・運営費用を賄う方式(経費負担の方法)をどう定めるかという問題でした(大別して二つ)。
① 現行のように毎月の出席が建前、会費は一律に頂くが、手数を省くために二カ月とか三カ月を単位としても可。公民館グループでは最も一般的。
② 会員が広く薄く分布する学会などに多いタイプ。会場が変動する場合もある。
年度の初めに通信費を徴収。毎回の会場・日時・テーマ・発表者など明細の通知費用に充てる。会員には毎回出席の義務はなく、出席時のみ指定された金額を支払う。
意見は分かれましたが、豊中とその近隣の一帯が主力と予想される当会では、①が妥当ではないかと結着しました。
その二は毎月の会報を発行してはという提案でした。富田好久先生(色々なことで随時お世話を頂きました)からの強いおすすめもあり、続けられるかためらいも大きかったのですが、兎に角前向きに努力しようと発行を決意しました。
当初は発起人の一人で豊かな記者経験をお持ちの小野沢久雄さんと同じく発起人の宮田佐智子さんのコンビで始められ(よく工夫された内容でした)、担当の交代はありましたが、次第に充実し、平成二十年末で二百五十号に達しました。これも、色々なお立場でご協力を頂いた多数の有難い方々のお陰と厚く御礼申し上げます。また、今後も変わらぬご支援をお願い致します。
会 会の発足に当たり、初めは基礎的なものからということで計九回の予定がたてられました。各講師の選定や交渉については、辻館長や市の文化財担当の方々の協力によるところが多大でした。講義の原稿をいただいて当日の教材の準備をする等の作業も分担して行いましたが、初めての方もあり体制が整うには若干の時間も必要でした。
発起人がそのまま幹事となりましたが、その役割は左の通り、現在も会員として残っているのは○印のお二人と私の三人だけ、二十年の歳月を痛感させられる次第です。
会長 城 重隆
副会長 池内泰子
会計 甲斐昭子 ○宮田佐智子
幹事 ○廣田博美 朝田孝 小野沢久雄 ○西垣健一
初回の講師は亥野彊先生(豊中市発掘調査団団長)、第二回は富田好久先生(大阪青山学院大学)、第三回が段煕鱗先生(韓国文化研究会会長)、第四回~九回は豊中市文化財の山元建・柳本照男・服部聡志のお三方が交替で務めてくださいました。
会場は第一回が市の中央公民館。蛍池公民館所属の「豊中歴史同好会」として正式に発足。第二回以降は蛍池公民館で開催されるようになりました。
出席は、初回が約五十名、第二回以後は三〇~四〇名程度でありました。
第十回以後の例会講師については、平成に入った頃から幹事会で相談を始めましたが、早くから要望の高かったのは堺女子短大の塚口義信先生でありました。
また、亥野先生・辻館長などからも強いおすすめがあり、お会い出来るよう取り持っていただけました。詳細は忘れましたが、梅田のコーヒーショップで我々幹事数名が先生とお会いしお願いすることが実現。幸いにも大変好意的にお引き受け下さり、第十回から連続六回の先生の講義が定まりました。
今ふり返るとこの時点が当会の実質的なスタート、先生との長い有難いご縁の生まれたときと思います。
いっぽう会の中では一九九〇年(平成二年)の春、城会長がご事情で退かれ、急遽の協議の結果、私が二代目の会長を仰せつかることとなりました。当時私は陶芸の会長とグループ連絡協議会の会長を兼ねていましたのでためらいもありましたが、大事なときと決心。第十八回例会で正式に承認されました。当時中長期の課題として私が思っていたのは、次の三項目でした。
一、会員数の積極的増加策
二、会員の出席率向上
三、会費徴収率の向上
二と三には共通の関係もあります。この一連の対策には女性幹事からいろいろきめの細かい案が出され、それぞれ逐次着手。ある期間様子をみた上で更に検討する息の長い作業が日常的ベースで長期間続くようになりました。
その内容は左のようなことでした。
・休まれた方には必ず当日の『つどい』を早く送る。
・休みの続いている方(多くは会費が未収になっている)にはご様子を積極的にお伺いする。
・当日の「レジュメ」は次回にも出して持ち帰れるようにする(可能な限り)。
・会費納入の記録が見やすく表記された納入封筒を準備し、納入日に並べて使用する(並べ方にも工夫する)。
その他いろいろですが、今も見直しては少しずつ改良が行われています。
また、女性に親しみやすい空気を造るため女性副会長に司会をお願いするなどはもっと早い時点から始めていました。
会の雰囲気が明るくなごみ、出席率も少しずつ改善されたように感じています。
一の会員増加策ですが、いろいろ考慮の末、先ず次のような公開講座(無料)を行うこととしました。
一九九〇年(平成二年)九月一日、講師は塚口先生、会場は豊中市の市民会館(曽根駅の東三分)の最も大きい講習室(控え室付き)、第二十四回例会として開催することと致しました。通常範囲以外に新聞各紙にも掲載を依頼しました。
当日は、どれだけの人が集まるのか大変気になりましたが、大変な数で会場はたちまち一杯、やむなく入場をカットしましたが人波は廊下一杯にまで溢れ、倉庫からの椅子の持ち出し、講演要旨の追加コピーその他で汗だくのくたくたとなりました。
会館長からはきついお叱りを受けましたが、結果は大成功。後に会の柱となって活躍された方々もこの中におられ、上々の出来と安堵しました。
塚口先生の有り難さを改めて認識させられた次第でした。
なお、この日のテーマは〝謎の人物「茅淳王」″でした。
また、この年の十二月にはバス会社企画の「吉備見学のバスツアー」もありました。私は不参加でしたが、かなり強行軍で大変疲れたとのことでした。
一九九一年(平成三年)春、異変が起きました。会報『つどい』発行に新聞的手法で先鞭をつけていただいた小野沢さんが退会されることになりました。『つどい』のみならず他の面でも広くお力添えをいただいていただけにショックは大きいものがありましたが、ご発展を祈ってお送り致しました。問題はその後でしたが、幸せなことに次のお二人から引き受けてもよいと申し出があり、ほっと安心致しました。
麻田茂・山口武のお二人は、一九九〇年九月・豊中市立市民会館の公開講座(講師は塚口先生)で共に入会された仲。公開講座がもたらした大きな成果のように思います。
当時は会も少しずつ上向きになりつつあって、会報にも厚みのある先生方ご自身の生原稿が好ましい時期にさしかかっていたと思います。これからは、ご負担をおかけして恐縮ですが、先生方の生原稿をいただいて、それに見学記や会員投稿を加えてはと考えて会報のスタイルを一新致しました。
幸い先生方はこれを前向きに受け止められて、もう少し時間の余裕が必要とのご意見もありましたが、力のこもった原稿を書いていただき、熱心な会員の寄稿も毎回続き、徐々に盛り上がって来たと喜んでいます。率先して実行に注力されたご両人には厚くお礼申し上げます。
新しいスタイルの会報は一九九一年(平成三年)の第三十二号から始まりました。
毎回の作製には、初期には矢野裕子さん、少しして古髙邦子さん(この後現在に至るまで一貫して会報の発行改善に大変実績を重ねていただき感謝しています)更に田中啓祐さんも加わって校正等の水準を高めていただくなど関係者が力を合わせて盛り立てていただいたことには心から敬意を表明する次第です。私も中途からお手伝いをするようになりましたが、よい勉強となりました。このときから、会報は八ページ~十二ページ程度と厚みが増しています。
その後現編集長の石塚一郎さんや今中典男さんも参加され、ますます発展することになりました。 (つづく)
つどい255号
豊中歴史同好会の20年(2)
会報のスタイル一新に伴って、仕事量は一挙に倍増しました。編集委員だけでは対応できず、例会当日の午前に各幹事が集まって処理することとしました。そしてその時間に諸々の連絡・相談・検討事項を話し合い処理するように致しました。結果は幹事会そのものが著しく活性化し、種々の前向きな対応が生み出されるようになりました。
このスタイルは今も持続され、当会の特長の一つになっています。
先生方の負担増は確かでしたが、いただ
く原稿は大体お話の時より整理され練り上げられて読みやすく、かつ先生方それぞれの個性もはっきりと迫力ある原稿となっていました。望外の成果と感謝している次第です。
更に見学記や、個人の投稿も増え、会報の内容は段々充実してまいりました。
以上は同好会内部のことですが、対外活動という面でも、この会報は大変大きな存在でありました。
私は平成四年から「古代を偲ぶ会」の会長も兼ねるようになっていました。諸先輩も居られる中でと何度も固辞致しましたが石川さんはお許しなく、最後はご命令と思い切ってのことでしたが、仕事量も大変なものでありました。
その一つが各新聞社めぐりでした。「古代を偲ぶ会」ではそれが唯一のPR手段、適当な間隔で各社を廻り各月の「テーマ」と講師などを知らせて、新聞への掲載が途切れないようにすることが大切でした。そのためには矢張り土台となる通年の活動計画(年間の講演予定が骨子)が必要と痛感。平成五年からは両グループの年間講演予定を目指しましたが、最初は十二月末まで、次いで通年と二年がかりでやっと果たせました。
当会の場合は古代史で塚口義信先生、考古学では豊中市の主任学芸員の柳本照男さんのお二人のご援助を頂いてのことでした。
年度の終わり頃には次年度の計画を用意する点は「古代を偲ぶ会」でも同様でしたが、会員の分布状況や会の開催時間帯が異なるので、新聞社内部の相手先は異なっていました。
当会ではいろいろ調査の結果、次の二社に当会の対外広報をお願いすることと致しました。
① サンケイ新聞 「サンケイリビング」
② 朝日新聞 「アサヒファミリー」
いずれもあらかじめ「年度の計画」をお渡しした後、更に月ごと(後では二月ごと)の案内をお送りするようにしました。サンケイは大変好意的に扱っていただき、また仕事の進め方でも見事な見習うべき所があって大変参考となりました。
またのちほど「シティライフNEW社」「豊中ケーブルテレビ」でも取り上げていただきそれぞれに効果があったと思います。
広報という点では「豊中市報」ももちろん対象となりましたが、前者とは異なり年に一回だけ会の名前・内容などを記載するだけで具体的な月ごとのテーマなどは取り上げていないので、右の四者には及ばないのが実情です。
以上の方法は会の活動をPRする基本的な方法と思いますが、これだけでは不十分で、当会では次のような動的な活動も実施しそれぞれに効果をあげてきました。
① 市民講演会(公民館と共催または豊中市と共催)の開催
② 図書館ルートその他を利用する「入会者案内など」の配布・張り出し
それぞれに相当な経費がかかりますが、時機を選んで実施することが必要と思います。
今回の市民講演会は二十年というまことにタイムリーな時期の開催、今後の着実な会の発展に是非とも有効なカンフルとなって欲しいと心から祈念している次第です。
またそのことが発足以来、何かと配慮をいただいてきた市や公民館の関係者ご一同の心にお応えする途であると信じます。
参考までに申し述べると、過去の市との共催の市民講演会は次の二回、
①一九九七年十一月、出雲出土の青銅器をめぐる講演
・宍道正年先生(島根県埋文センター)
・酒井龍一先生(奈良大学教授)
②二〇〇三年十一月 設立十五周年記念シンポジューム
・一瀬和夫先生(大阪府教委)
・吉田晶先生(岡山大学名誉教授)
・塚口義信先生(堺女子短大学長)
公民館と共催の市民講演会は二〇〇八年まで通算十五回行っています。
当会では一九九一年(平成三)以降毎年自主企画のバスツアーを行ってきました。
初回は一九九一年丹後見学、以来二〇〇八年の南葛城・御所の史跡めぐりまで計十八回。毎回塚口先生及び現地で解説をしていただける先生方と同行の充実した内容と思っています。
コースの下見は行程の適否・所要時間・トイレ休憩地点の確認・その他色々の調査が必要で面倒なものですが、一切手を抜かずまとめ上げる幹事さんのご苦労には感謝あるのみです。
また道中の各先生方の説明は、他では絶対に聞けない高度で綿密でしかも判りやすい貴重なものと私は確信しています。
年一回のバスツアーに対して月一回の現地見学は当会の理念の一つで、会の発足時点から重要視してまいりました。しかしその実施には毎月の下調べ・現地確認・関係資料のチェックや準備など地味な作業(相当な手数・時間が必要)で質と量の両面が要求されます。
一九九一年からの数年間は、今から思えば会が少年から靑年に無事成長できるかどうかの大事な時期ではなかったかと思います。
『つどい』は麻田・山口・古髙・田中さんを主に、私はそのバックアップにまわり、見学は私が主に随時幹事諸氏の協力をいただいてやっていこうと考えました。
「古代を偲ぶ会」運営の重責もこれなら同時に果たし得ると思いました。また「古代を偲ぶ会」ルートの先生方のお力も随時お借りすることが可能な相乗効果のある道でもありました。
大変忙しい、しかし頑張らねばと己に言い聞かせて汗をかいた日々でありました。
この時期、数年で会の基礎がしっかり固まったと私は思います。
『つどい』への投稿も日を追って増加、質・量両面で著しい発展のあった頃と言えましょう。一々お名前をあげるのは控えますが、お力をいただいた数々の方に心からお礼を申し上げる次第です。
会は期の当初に「年間計画」を打ち出し、また年度の結果を明示し、会員数も少しずつ着実に増加する安定成長期に入ったと思いました。
一九九六年十月『つどい』の百号記念として特別講演会(公民館共催)を行いました。テーマは「韓国考古学界の近況」。講師は堀田啓一先生で大変盛大でした。
そして十一月一日付け発行として、特筆すべき「第一〇〇号記念特集」が発行されました。
創立時お世話になった先生方のほか尽力いただいた方々六名のお言葉と、会員三十八人の原稿をいただいてまとめましたが、予想をぐんと上回る大部となり大変嬉しくかつ予算オーバー甚大という盛況でした。
ここまで頑張ってよかったとつくづく思うと共に、核心となって大奮闘していただいた麻田茂副会長と山口武幹事はじめ関係幹事のご一同には改めて厚くお礼申し上げる次第です。
『つどい』百号の後、石野博信先生や横田健一先生の講演があったり、藤澤一夫先生から『つどい』百号のお祝いとして帛書をいただくなどのうれしいことが続きましたが、一九九七年十一月にショッキングなことが起きました。
『つどい』発行の主軸麻田茂副会長と山口武幹事の辞意表明です。それぞれのご事情を伺うとこれ以上『つどい』のことをお願いするのはどうかと思われ、これまでのお礼を述べて申し出をお受けすることとなりました。
『つどい』発行には、新しく石塚一郎幹事(後に副会長)・古髙邦子幹事・田中啓祐さんお三人に私も加わって全体のレイアウトやお知らせ・編集後記などを担当、場所は豊中大池小学校内の公民館の出先「コミュニティプラザ」を使用することとしました。
また知的なバックアップメンバーとして、野田昌夫さん・山崎岳麿さんにも適宜助力をお願いする体制を整えました。
後には更に今中典男さんも加わり強力なチームとなりました。
『つどい』記事には、時に海外の資料や市と共催の講演でご厄介になった奈良大学の教授酒井龍一先生の「考古学川柳」を加えるなど門戸を広くするように致しました。
また現地見学に加えて、富田好久先生にお願いして、新しく半日コースの「北摂歴史散歩」も始めました。その世話役としては宮田副会長、会計・記録に河内幹事・金谷幹事をお願いして、一九九九年秋から約二年間十二回実施されました。
その後、富田先生が博物館などのことでお忙しくなられて取りやめとなりましたが、先生独特の軟らかい語りは大変好評で、ありがたく感謝申し上げるところです。
その後公民館のルシオーレビル五階への移転などがありましたが、会の行事などには大きな変化はなく、安定した状況が続くようになりました。
『つどい』二百号記念として、『つどい』百一号~二百号の総目録をコンパクトにまとめ発行したのもこの時期です。
二〇〇六年(平成十八)十一月、当会は思いがけない表彰を受けることになりました。豊中市の教育長名の次の主旨の表彰でした。
「社会教育の発展に尽力。市民文化の振興に多大の貢献を……」
長年「市民講演会」を重ねてきたことが理由かと思いますが、これも多年講師として汗をかいて下さった塚口先生のお陰、有難いことであったと感謝いたします。
しかし他方でいささか困ったことも起きてきました。会場の狭さと机椅子の出し入れの負担の問題です。
会員増と幹事の高齢化でだんだん切実な難題となり、公民館長とも相談し、六階の敎育センター長のご好意で、六階の広い部屋をお借りする樣になりました。
当会の会員数は目下は殆ど増減がない状況ですが、出席率は高水準。この一年二年は先生方のお話にも熱のこもった有難いケースが続き、会場は概ね満杯状態。会員増が起こるとたちまち会場問題が起きましょう。
会の今後を考えると、どうしてもより若い会員層を厚くすることが大切、広い会場を視野にとらえておくことは大事と思います。
多年にわたり、ご厚情を賜った多くの方々に心からお礼申し上げ、豊中歴史同好会二十年の筆を擱かせていただきます。