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二上山に登るー大津皇子の悲劇ー

つどい250号    会員 金谷 健一

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した、した、した、深い闇。岩伝う雫の音。
  眠りの深さが頭に浮かんで来る。長い眠りであった。
  あゝ「耳面刀自」甦った語が彼の人の記憶を響き返した。
  ただ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫が離れてくる。

 折口信夫(明治二十年~昭和二十八年)の著書『死者の書((1))』の蘇生譚((2))に惹かれて二上山に登ったのは昭和三十年代の終わりの頃だった。二度目の登山は、二上山の南斜面に七世紀後期の古墳(後に、鳥谷口古墳と命名)が発見されて、大津皇子の墓ではないかと騒がれた、昭和五十八年の晩秋の頃だった。
今回は、川西市の「古代学」友の会が二上山に登ると聞いたので同行を申し出た。
会長さんは、当会の陸井さんで、当日の幹事も当会の斉藤さんで、三月十三日、実 に二十四年振りに二上山に登った。

今回の登山にあたって改めて『死者の書』を読み返した。折口信夫は反逆者(大津皇子)の呻吟う霊魂に・・・自分の心の底を打ち明けられずに死別した耳面刀自(藤原鎌足の娘、不比等の妹、大友皇子の妃)に仮託したとして・・・当麻寺に伝わる中将姫伝説と、氏族の語り部の媼の独り言の導入部から、物語の本筋へと誘って行くという書き出しで、少し難解な内容ではあるが、一読に値する名著であると思う。
山本健吉(文芸評論家、折口信夫に師事、明治四十年~昭和六十三年)は、故人に奉げた挽歌だと賞し、池田弥三郎(民族学者、折口信夫に師事、大正三年~昭和五十七年)は、耳面刀自に仮託したのは、辰馬桂二だと述べておられる。折口信夫についてはこの位にしておく。
  (1) 古代エジプトで、死者の冥福の為の副葬品として書かれた、死後の世界への案内書。
 (2) 辰馬桂二については、角川書店、日本近代文学大系、四十六巻『折口信夫』集、補注四三四~四五四
頁を参照されたい。             
 
 天武七年(六七八)五月五日、天武天皇の鹵簿は、吉野の清滝へと出発した。今回の行幸は天武天皇の後継者を選ぶ大事な行事が予定されていた。吉野に同行した皇子は六名、皇位継承の順位から草壁皇子・大津皇子・高市皇子・川島皇子・忍壁皇子・志貴皇子となる。すでに、天皇は耳順を迎える年齢に達していたが、時に?野皇后は三十四歳。
             当時、大津皇子にとって父の天武天皇は、国史の編纂『帝紀及び上古の諸事』の記述に打ち込んでいて、政務の実権は草壁皇子の実母、?野讃良皇后(後の持統天皇)が手中にしていた。

大津皇子の悲劇については、『日本書記』『懐風藻』などから広く知られているように、天智・天武天皇が共に凡庸な草壁皇子に比べて大津皇子の才能を認めていた事が、皇后にとっては心中穏やかならないものが、蟠っていたのであろう。吉野宮滝で、天皇が「汝たち六人の皇子の誓いを吉野の神に誓って皇子の順位を決めたい」と述べられると、最年長の高市皇子が「この御代を乱すこと無く、皇子たちが力を合わせて大御心に添い奉ります」と答えたために、後継者は草壁皇子に決まった。
遺された『懐風藻』には大津皇子について、「状(じょう)貌(ぼう)魁(かい)悟(ご)、器宇峻遠。幼年にて学を好み、博覧にして能く文を属(つづ)る。壮(さかり)に及びて武を愛(この)み、多力にして能く剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして法度に拘らず節を降ろして士を礼びたまふ。是に由りて人多く付託す。時に新羅の僧、行心といふ者あり、天文卜筮(ぜい)を解(し)る。皇子に詔げて曰はく『太子の骨法、是れ人臣の相にあらず、此れを以ちて久しく下位に在らば悪(おそ)るらくは身を全くせざらむ』といふ。困りて逆謀を進む。此の?(かい)誤(ご)に迷ひ、遂に不軌を図らす。嗚呼惜しき哉。彼の良才を薀(つつ)みて、忠孝を以ちて、身を保たず、此の?(かん)豎(じゅ)に近づきて、卒(つい)に戮辱を以ちて自らを終ふ。古人の交友を慎みし意(こころ)、因りて以みれば深き哉。時に年二十四。」
『懐風藻』現存最古の漢詩集、天平三年の序、淡海三船撰の伝、岩波書店、日本古典文学大系六十九巻所収。
 
 『懐風藻』によると、「此の?賢に近づきて」とあって、新羅僧、行心の占筮に?計と知りつつ墜ち行く心を「此の?誤に迷ひ」から窺い知る事が出来る。
 また、万葉集では、大津皇子と、兄の草壁皇子が共に宮廷の才媛、石川郎女に歌を贈っているが、郎女からの返歌は、大津皇子に対する歌のみが見られて、恋の鞘当ては、大津皇子に勝機があったようであるが、この頃には既に大津皇子の行動は、皇后の命によって津守連通の監視下にあったが、達観の上から、『懐風藻』には「性すこぶる放蕩にして法度に拘らず」とある。また、万葉集の次の歌から不羈(ふき)反骨の気風を読み取る事ができる。

  大船の津守の占に 告らんとは
    まさしにしりて わが二人ねし

 だが、悲劇は、天武十五年九月九日、天皇崩御によって現実のものとなった。それは天皇の殯の喪礼の期間中に謀反が発覚した。
 諜報者は、赤心の心を持つと信じていた川島皇子だった。川島皇子については『懐風藻』は次のように記す。
 「始め、大津皇子と莫逆の契りを為しつつ、津の逆を謀るに及びて、島則ち変を告ぐ。朝廷其の忠正を嘉みすれど、朋友其の才情を薄みす。(中略)君親に背きて交を厚くすることは、悖徳の流ぞと。但し未だ争友の益を尽くさずして、其の塗炭に陷ることは余も亦疑ふ。時に年三十五」とある。
 十月二日、大津皇子は香具山にて朝餉の最中に捕らえられて、翌三日、訳語田(桜井市戒重)の自宅に護送されて処刑される。『懐風藻』には、「此の?誤に迷い」とあって、心の底には、新羅僧行心に疑いの心をも抱きながらも、迷いの果てに実行せざる心の底を人々は運命の悲劇と現在に語り続けたのであろう。
皇子の死によって悲しみのあまり、妃の山辺皇女(天智の娘)が髪を振り乱して、素足のまま駆け出し、後を追って殉死したのが人々の涙をさそったとある。また、伊勢神宮に斎王として奉仕していた姉の大伯皇女が呼び戻されたのは全てが終わった後であった。
大津皇子は、磐余の馬来田(現・不明)の池の辺に葬られたが、大伯皇女の手によって殉死した山辺皇女と共に二上山に合葬されたという。この事件に関しては、持統天皇による冤罪説もあるが、皇子は事に臨んで伊勢に姉の大伯皇女を尋ねている。この事によって、壬申の乱の大海人皇子に倣った戦勝祈だとする説もある。姉妹の間にいかなる会話が
交わされたかは知る由も無いが、大伯皇女の次の二首の歌から、姉は弟の、弟は姉の心の内を読み取っていたと見るべきであろう。

  我が背子を大和へやると さ夜ふけて
    あかとき露に わが立ちぬれし  

  二人行けど行きすぎがたき 秋山を
    いかにか君が ひとり越ゆらむ
    (万葉集 二~一○五・一○六)
次に大津皇子の墓について考えてみると、万葉集の歌から馬来田に仮埋葬の後に二上山に移葬された事が判るが、万葉学者の犬養孝は、「仮の弔いをした後、信仰の山である二上山の山頂に葬った」とされるが、現在山頂にある宮内庁が管理している皇子の墓は、明治の初めに、大伯皇女の歌から想定されて築造された墓であって、七世紀に築造された墓は、山の南側の斜面とするのが一般的である。
また、次の歌から、大津皇子の墓が何故大阪の方を望んでいるのかと言う謎が解けるのではないだろうか。
  うつそみの人なる吾や 明日よりは
    二上山を 汝背と吾がみむ
 「大津皇子の屍を葛城の二上山に移した葬った時の歌」と注釈がある。(二・一六五) 

ここからは、山手大学教授、河上邦彦氏の『終末期古墳の研究―後期古墳の構造と被葬者』から、鳥谷口古墳が大津皇子の墓としての可能性を秘めているとの説に沿って述べたい。
 鳥谷口古墳は、当麻寺から、なだらかな坂道を十五分位登った、二上山東麓の斜面に位置する七世紀後半の方形墳である。付近の當麻町兵家にある兵家古墳について先生は、この古墳は、竹内峠よりさらに南に位置していて、すでに二上山麓とは言いがたいとして範疇から除かれていて、昭和五十八年に二上山麓の南斜面で掘り出された、鳥谷口古墳が有望だとされている。
 古墳の被葬者を推定するのは、慎重にならなければと、次のように述べておられる。古墳の規模は七・二メートル(唐尺で、二十五尺)の方墳で、石室内部は六十センチメートル×一五八センチメートルで、入り口の寸法は五十センチメートルで、火葬の後に骨を集めた二次葬とされ、しかも殉死した山辺皇女との合葬墓と考えられると書いておられる。
 発見時すでに盗掘されていて、木棺の残欠や、骨の一部も残されていなかった事から、金属製の骨容器をそのまま持ち去ったのではないかとされ、遺されていた須恵器や土師器から、古墳の築造時期は七世紀後半から末頃と推定されている。

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