5世紀のヤマト政権と北河内
つどい250号
5世紀のヤマト政権と北河内
財団法人枚方市文化財研究調査会 西田敏秀先生
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「五世紀のヤマト政権と北河内」
財団法人枚方市文化財研究調査会 西田 敏秀
はじめに
西田です。よろしくお願いいたします。私に与えられたテーマは、考えれば考えるほど大きなもので、どうしたものか、実際に悩みました。このようなテーマで話させて頂く時、核となるのはやはり古墳の動向になると思いますが、後でみますように北河内では五世紀―中期―の古墳というのは実に貧弱で、古墳からだけのアプローチは難しいということがあります。そこで、集落遺跡の様相や、全くの門外漢でありますが文献史料にも視野を広げ、「五世紀のヤマト政権と北河内」について考えてみたいと思います。
一 古墳の様相
まず、古墳の様相から見てみたいと思います。表1の「河内の古墳編年表」(近藤義郎編一九九二『前方後円墳集成』近畿編 山川出版社)をご覧下さい。表では10期に区分されていますが、1期~4期が前期、5期~7期が中期、8期~10期が後期にほぼ該当すると考えて下さい。なお、北河内は古代の交野(かたの)郡・茨田(まむた)郡・讃(ささ)良(ら)郡に、現在の行政区分では枚方市・交野市・寝屋川市・門真市・守口市・四條畷市・大東市にほぼ該当する地域ですが、五世紀の段階でひとくくりにしても良いのかという問題は残ります(なお、交野郡は当初、茨田郡に編成されていましたが、大宝律令施行時に茨田郡から分割設置されたものと考えられています)。この表では四條畷地域と大東地域を北河内に含めず中河内としています。
一方、表2の「北河内地域における主要古墳の変遷」(井上主税二〇〇八「トピック5北河内の古墳について」『北河内の古墳―前・中期古墳を中心にー』財団法人交野市文化財事業団)では、讃良川流域―四條畷地域―を北河内に含んでいます。このように定まっていないのが実情ですが、本日はこの点につきましては触れずにおきたいと思います。
表1に戻りますと、前期古墳がとても多いというのがお判りかと思います。一方、中期の古墳といえば、牧野(まきの)車塚古墳と四條畷地域の墓の堂古墳があるくらいです。今、牧野車塚古墳と墓の堂古墳という話をしたばかりですが、牧野車塚古墳につきましては、近年の調査・研究の成果によって中期古墳という認識を訂正しなければならない状況です。
二〇〇四~五年に実施しました牧野車塚古墳に対する調査で、従来、五世紀初頭頃と考えられていた築造時期が、出土した埴輪などから少なくとも四世紀後半に遡ることが明らかとなりました。さらに墳丘などに遡る諸特徴が看取されますことから、昨年、関西大学・京都橘大学・京都府立大学の皆さんと私どもで、約四〇年ぶりとなる墳丘測量調査を実施しました。その結果、四世紀中葉若しくはそれ以前の築造との見解に達し、今年五月の日本考古学協会で発表したところです(一瀬和夫・菱田哲郎・米田文孝・西田敏秀二〇〇八「牧野車塚古墳の再検討―墳丘測量調査の成果からー」『日本考古学協会第74回総会 研究発表要旨』)。従来よりも約五〇年は古くなり、完全に前期古墳に仲間入りをしたということです。この結果、北河内では中期の有力な古墳はなくなり、いわば空白地帯となってしまったということです。
表2をご覧頂きますと、そんなことはないではないか、とおっしゃる方もおられると思います。表2の「交野」のところを下に見ていきますと、確かに安定して古墳の築造が続いているように見えます。しかしながら、前期末に比定されます車塚一号墳(東車塚古墳、前方後方墳、全長六五メートル)の築造後は、古墳の規模が随分と小さくなっています。唯一、車塚六号墳(大畑古墳、前方後円墳、全長八五メートル)が中期後半に築造されているようですが、この古墳は最近その存在が明らかとなったもので、不明な点が多くあります。また、先の墓の堂古墳の墳丘規模は、二つの表で一二〇メートルと六二メートル、大きく違ってしまっています。一二〇メートルと六二メートルでは、随分違いますね。
私たちはある地域の古墳の様相について考える時、古墳それぞれの築造時期とその規模などを根拠にいろいろと考察を行います。その根拠となるデータが違っていますと、自ずから導き出せるものも違ったものとなってしまいますね。ですから、まず、正確なデータを得ることが何よりも大切です。このような意味から、昨年、牧野車塚古墳の墳丘測量調査を行いましたし、現在も三大学の皆さんと禁(きん)野(や)車塚古墳の墳丘実測調査を実施しています。禁野車塚古墳につきましてもいろいろと新しいデータが得られそうで、その結果が楽しみです。
話を戻しますと、北河内の中期(五世紀)の古墳の様相は、前期と比べますと明らかに貧弱であるということは言えると思います。ではなぜ、前期に古墳の築造が活発に行われていたのに、中期には有力な古墳が築かれなくなってしまったのか。次に、集落遺跡や文献史料からこの問題について考えてみたいと思います。
二 遺跡の様相
図1の「北河内地域の古墳時代遺跡」をご覧下さい。図には主な古墳と遺跡の位置が示してあります。まずその中の寝屋川市
長(ちょう)保(ぼ)寺(じ)遺跡と四條畷市蔀屋(しとみや)北(きた)遺跡で、井戸枠に転用した準構造船の船材が見つかっています。長保寺遺跡で三隻、蔀屋北遺跡で四隻です。準構造船は外洋航海が可能な船で、一九八九年、大阪市長原遺跡高廻り二号墳から出土した船形ハニワ(準構造船)をモデルに復元された「古代船なみはや」が、釜山まで実験航海をしたことを覚えていらっしゃる方も多いかと思います。あのようなタイプの船です。図を見ますと、両遺跡は河内湖の最も奥まった所に位置していることが判ります。両遺跡は河内湖に面した港、言い換えれば朝鮮半島に直結した港湾遺跡と呼んでも差し支えない遺跡だと考えられます。
蔀屋北遺跡は二〇〇一~二〇〇六年にかけて大規模な調査が実施され、五・六世紀を中心とする大規模な集落遺跡であることが明らかにされています。集落の最盛期は五世紀後半から末にかけてで、竪穴住居・掘立柱建物・井戸・溝・土壙などが検出されています。なかでも注目されますのが五世紀後半の馬を埋葬した土壙で、図2にありますように馬の全身骨格が検出されました。いわゆる蒙古系の馬で体高一二五センチメートルを測り、五~六歳と推定されています。馬の埋葬例は古墳に伴うものはありましたが、集落域からははじめてのことで、完璧な全身骨格という点も含め、極めて意味深いものがあります。この馬が見つかったと伺った時、なんとか時間を作り、現地で見学させて頂いた時の感動は今も忘れることができません。想像していた姿そのものが、そこに横たわっていたのです。この馬は保存処理の後、二〇〇四年から「近つ飛鳥博物館」で公開されています。なお、現在の生息馬で最もこの馬に近いものは、天然記念物に指定されている宮崎県都井岬の御崎馬だと言われています。
蔀屋北遺跡からは木製の鞍や輪(わ)鐙(あぶみ)、?轡(ひょうぐつわ)など乗馬にかかわる遺物や馬の飼育に欠かせない塩を得るための製塩土器が多量に出土しているほか、韓式系土器やU字形板状土製品(造りつけかまどの焚口の枠)など朝鮮半島と直結する遺物が出土しており、馬の飼育や牧の経営に関与した渡来集団の集落と位置づけられています。
枚方市小倉東(おぐらひがし)遺跡では、五世紀前半の小方墳の周溝から、鉄製?轡が出土しています。その出土状況から轡(くつわ)だけを装着した馬を、古墳の葬送儀礼に伴い殉殺したものと考えられます。同じような例が六世紀後半の宇山二号墳でも検出されており、約一世紀半にも及ぶ時を経て、同様な殺馬祭祀が行われていることは注目に値します。このような殺馬祭祀は東北アジアから朝鮮半島南部を経由してもたらされた習俗とみられ、馬飼集団の関与が窺えます。なお、小倉東遺跡の轡は右と左が別々で、補修していることが明らかなもので、列島最古の補修轡である可能性が高いものです。
小倉東遺跡に近接する交北城(こうほくじょう)の山(やま)遺跡や出屋敷では、馬の下顎骨や馬歯とともに滑石製臼玉や双孔円板などが出土しており、馬にかかわる祭祀が行われていたものと考えられます。交北城の山遺跡からは、渡来人やその子孫の存在を端的に示す遺物として位置づけられている軟質系の平底鉢などの韓式系土器が出土しており、渡来系集団の存在が推定されます。また、出屋敷遺跡からは製塩土器が出土しており、馬の飼育が行われていた可能性があります。このような状況は、四條畷市奈良井・南野(みなみの)米崎(こめざき)遺跡や寝屋川市楠木遺跡でも確認されており、北河内ではかなり広範囲で馬にかかわる事柄が明らかとなっています。最近の考古学の成果から、五世紀の北河内には渡来系の馬飼集団の活動の痕跡が濃厚に窺えます。
茄子作(なすづくり)遺跡の一棟の竪穴住居(第二次調査第六号住居)から、約三〇年前に一括して韓式系土器が出土し、注目されていましたが、他に同時期の遺構があまり検出されなかったため、その位置づけはなかなか難しいものがありました。二〇〇四~二〇〇六年に実施された財団法人大阪府文化財センターによる調査で、第六号住居の南方に位置する流路から融着資料を含む多量の初期須恵器などが出土するという新たな展開がありました。加えて、流路の下流域にあたる上の山遺跡からも初期須恵器と窯体の一部などが出土したことから、窯本体こそ検出されていませんが、茄子作遺跡内に初期須恵器を生産した窯(茄子作窯)の存在が充分に想定されるところとなりました。そして、第六号住居については茄子作窯の開窯と、その操業に携わった渡来系工人の住居である可能性が高まり、永年の謎が解けた感があります。なお、茄子作窯の操業は比較的短期間で終わったようで、工人の数も少なかったものとみられています。交北城の山遺跡からも硬質系のやけ歪みのある壺などが出土しているおり、茄子作窯と同様な初期須恵器窯が付近に開かれていた可能性があります。このほか、交野市森遺跡では、五世紀後半から六世紀にかけて鉄生産が集中的に行われていたことが判明しており、北河内にさまざまな職能集団の入植が跡づけられます。
三 文献史料にみる北河内
『古事記』仁徳天皇段は、茨田(まむだの)堤と茨田三宅(みやけ)を秦人(はたひと)を使役して造営したと記しています。『日本書紀』仁徳天皇十一年十月条には、茨田堤の築堤説話が記され、同じく仁徳天皇十三年九月条には茨田(まむたの)屯倉(みやけ)を設置したことがみえます。茨田堤の築堤場所は、淀川本流左岸説や淀川本流左岸と分流説など定まっていませんが、図3にある淀川本流と古川のそれぞれ左岸に築堤されたとみる説が、延喜式内社の分布などから有力と考えられています。ともかく茨田堤の築堤は淀川の洪水を防ぐ目的と同時に、安定した米などの生産地を確保する意味があり、茨田屯倉(三宅)の設置とほぼ同時期(五世紀後半代)に行われたものと推定されます。政権が直接的に関与したものであり、
強力に推進されたものと思われます。これらの土木工事には、『古事記』には秦人の使役が、『日本書紀』には新羅人を使役したことが記されており、土木工事に精通した渡来人の技術が導入されたものと考えられています。
茨田屯倉に対する最近の研究(鷲森浩幸「屯倉の存在形態とその管理」『日本古代の王家・寺院と所領』)によれば、水田・御厨・葦原・蒋沼・牧・氷室などからなっていたといいます。水田については、茨田屯倉の設置と同時に舂(つき)米(しね)部を定めている(『日本書紀』仁徳天皇十三年九月条)ほか、『日本書紀』宣化天皇元年五月条には、茨田屯倉などの穀を那津(なのつ)官家に輸送する記事などがあることから、その存在は確実とみてよいでしょう。御厨は大東市赤井に比定されているほか、葦原は守口市大庭に、蒋沼は大庭・大窪湿地帯にそれぞれ比定されています。
氷室については、『延喜式』では讃良郡に存在していたことが明らかで、平城宮跡出土木簡に、表に「更浦氷所□」、裏に「養老□」とあるものがあることなどから、屯倉の中にすでに成立していたとみる見解があり、四條畷市室池あたりに比定されています。
牧についてはすでに遺跡の状況をみましたが、文献からは河内馬飼のほか、沙羅羅
馬飼造や菟野馬飼造などがみられます。沙羅羅は讃良であり、菟野は『日本書紀』欽明天皇二十三年七月一日条に「河内国更荒郡?猫野邑」(欽明天皇二十三年七月一日条)とあることからともに讃良郡にかかわる氏族とみられます。『日本霊異記』には「河内国更荒郡馬甘里」などとあります。
交野郡の牧については、後に、楠葉の地に摂関家楠葉牧が設置され、発展します。楠葉牧は少なくとも平安時代中期には成立していたと考えられるもので、摂関家の氏長者に属し、「殿下渡領」として代々伝領されるという重要なものでありました。楠葉牧成立以前の平安時代前期にも、淀川に面した交野郡や茨田郡などの河畔の地に「公私牧野」があり、その「牧子之輩」が船の往来を妨げたという史料(昌泰元年十一月十一日太政官符)があり、淀川などの河畔の地が牧としての適地であったことを示しています。
おわりに
以上、簡単に五世紀の北河内の様相を、古墳や遺跡、文献史料からみてきました。古墳の様相からは、なぜか五世紀に入ると有力なものは築かれなくなるということが確認できます。遺跡の様相からは渡来系のさまざまな職能集団の入植が跡づけられ、特に馬飼集団の活動の痕跡が広範囲で確認できます。文献史料からは、茨田堤や茨田屯倉などヤマト政権が直接的に関与したと考えられる、現代的に言えば大規模なプロジェクト事業が、渡来系の技術者を用いて行われたことが判ります。
これらのことから、五世紀の北河内にはヤマト政権の礎となるようなさまざまな職能集団が積極的に入植され、さらには渡来系の最新技術を用いた茨田堤の築堤などを経て、政権の直轄領たる茨田屯倉の設置を見、地域社会が大きく変革されたという図式が復元されます。これらの過程において、前期の首長層は解体され、その結果、中期の有力古墳の築造は見られなくなったのではないか、と考えられます。以上が、本日のテーマについて、私なりに考えたものです。ご清聴どうもありがとうございました。