« 出雲の古代を探る③ | トップページ | 法隆寺から三室山へ »

鴨集団と四世紀末の争乱

つどい249
鴨集団と四世紀末の争乱
堺女子短期大学学長 塚口義信先生

①画面をクリックすると拡大します
24901

24902

24903

24904

24905

24906

24907

24908

24909

以下検索用テキスト文
漢字変換の制限により文字化けがあります。

つどい249
鴨集団と四世紀末の争乱
堺女子短期大学学長 塚口義信

はじめに
御所市を中心とした葛城南部には、どのような政治集団が盤踞していたのであろうか。『古事記』『日本書紀』(以下、『記』『紀』と略す)をはじめとする文献史料によると、五世紀代には葛城集団が盤踞し、巨大な勢力をふるっていたと考えられる。
ところが一方、葛城南部の神社を調べてみると、鴨氏の神社が三社(鴨都波八重事代主命(かもつわやえことしろぬしのみこと)神社・御所市御所宮前町、鴨山口神社・同櫛羅、高鴨阿治須岐託彦根命(たかがもあじすきたかひこねのみこと)神社・同鴨神)も鎮座し、かつてのある時期には鴨集団も有力な政治集団として葛城南部で勢力をふるっていたと考えられる(図1を参照)。
では、これら二つの集団は葛城南部において、どのような関係にあったのか。それを探るのが、今回の講演の主たる目的である。もとより一つの推論にすぎないが、文献史学と考古学の両面からその実相に近づいてみたいと思う。

一、葛城集団の台頭
『記』『紀』によると、葛城氏(「氏」の成立は五世紀後半以降と考えられているので、正確には「葛城氏およびその前身の一族」とでも言うべきであろうが、ここでは仮に、このように言っておく)の大族長であった葛城襲津彦(そつびこ)は、四世紀後半に日本の対朝鮮外交で活躍した将軍の一人であり、また、その娘の磐之媛は仁徳天皇の皇后(大后)となって、のちの履中・反正・允恭の三天皇を生んだと言う。さらに、履中天皇は襲津彦の孫にあたる黒媛を娶って市辺押羽皇子をもうけるが、その子の意豆(おけ)・袁豆(をけ)二王は清寧天皇亡きあと相次いで即位
し、顕宗(袁豆王)・仁賢(意豆王)の両天皇になったと伝えられる。このように葛城氏は、対朝鮮外交で活躍する一方、五世紀代の大王家の外戚として、大いにその権勢をふるっていたのである。
ただし、ひとくちに葛城氏と言っても、実は、そこにはいくつかの系統の葛城氏が存在していた。少なくとも『記』『紀』による限り、次のふたつの系統の葛城氏が存在していたと考えられる。ひとつは、「襲津彦-□-玉田宿禰(たまたのすくね)(襲津彦の子とする所伝もある)ー円大臣(つぶらのおおおみ)」の系統であり、他のひとつは、「襲津彦-葦田宿禰-蟻臣(ありのおみ)-?媛(はえひめ)」の系統である(図2を参照)。
葛城南部と深い関わりを持っていたのは前者の系統の葛城氏であり、葛城地方最大の前方後円墳として著名な①室宮山古墳(室大墓古墳・墳丘長約二四六メートル・五世紀初頭)や②掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳(墳丘長約一五〇メートル・前方後円墳・五世紀中葉)は、この系統の葛城氏の族長墓であったと考えられる。おそらく①は葛城襲津彦、②は玉田宿禰の奥津城であろう((1))。

二、 四世紀末の争乱
では、葛城南部の葛城氏は五世紀代になって、なぜそのような巨大勢力を持つことができたのであろうか。それは、おそらく四世紀末の争乱が契機になっていると考えられる。
私は別稿((2))で、四世紀末に、争乱が勃発したことを提起した。それによると、日向の諸族の支援を得て九州から摂津に進軍してきた応神の名で語られている政治集団(以下、単に応神と記す)は、大和北部から山城南部・近江南部・摂津・河内北部を勢力圏とするところの、四世紀後半にヤマト政権(畿内政権)の
最高首長権を保持していた政治集団(その奥津城は佐紀盾列(さきたたなみなみ)古墳群・西群)の正統な後継者である忍熊王(おしくまのきみ)の名で語られている人物の軍勢と戦い、これを打倒したのち、大和の畝傍山近傍の軽島の明宮(かるしまのあきらのみや)で即位し、「河内大王家」の基礎を築いたと考えられる。私見によれば、応神はもともと山城南部の綴喜(つづき)(京都府京田辺市附近)を本拠とする政治集団の出身で、のちに、古市古墳群の所在する河内誉田(こんだ)地方の一族のもとへ入り婿のかたちで入っていった人物と考えられるから、この争乱の本質は、佐紀盾列古墳群(西群)を築いた政治集団の内部分裂であったと言ってよい。
このように、四世紀末に勃発した争乱はヤマト政権の内部抗争に端を発しているから、私はこの争乱を「四世紀末の内乱」と呼んでいる。
それはともかく、葛城氏は四世紀末の争乱で勝利した応神方に荷担していたので、五世紀代になると台頭し、大王家の外戚として繁栄することができたと考えられるのである。 では、葛城氏が台頭する五世紀以前の葛城南部で勢力を有していたのは一体、どのような政治集団であったのか。それを直接に示している文献史料は、ほとんどない。そこで、ここでは視点をかえて、古墳の在り方からこの問題に迫ってみたい。

三、 鴨都波一号墳と鴨都波遺跡
 葛城南部における五世紀以前の築造と推測される主な古墳は、およそ以下のようである((3))(図3を参照)。
①寺口和田13号墳(葛城市)
円墳(径約五〇メートル)。主体部は粘土槨。勾玉・管玉・ガラス玉・刀子形石製品・棺金具・刀・鏃・斧・巴形銅器などが出土。埴輪・葺石を有する((4))。四世紀後半の築造と推定される。
②西浦古墳(御所市)
円墳(径約二四メートル)。主体部は粘土槨。細線式獣帯鏡・筒形銅器・勾玉・刀剣等が出土。四世紀後半の築造と推定される。
③オサカケ古墳(同右)
島本一の「琴柱形石製品の新例」(『考古学雑誌』第二八巻第六号、一九三八年)では前方後円墳かとされているが、当地域には前方後円墳が見当たらないので、数基存在する円墳の一つかとも言われている。主体部は粘土槨か。鏡・刀剣・勾玉・石製合子・車輪石の出土が伝えられる。
④巨勢山(こせやま)四一九号墳(同右)
方墳(一辺約一一メートル)。主体部に舟形木棺を直葬し、棺内より短剣一本が出土。埴輪を有する。
⑤鴨都波一号墳(同右)
方墳(南北約二〇メートル、東西約一六メートル)。周囲に幅三~五メートルの隍が巡る。主体部は粘土槨。出土遺物は多量の布留式土器のほか、以下のものが出土し、四世紀中葉の築造と推定される(図4を参照)。
《棺内》
棺内鏡(三角縁神獣鏡)1・漆塗杖状木製品1・緑色凝灰岩製紡錘車形石製品1・玉類(硬玉製勾玉5・碧玉製管玉8・ガラス小玉44)・鉄剣1
《棺外》
棺外東 鉄刀2以上・矢箭(鉄鏃)10・漆塗靫1・漆膜(盾?)1・碧玉製大形紡錘車形石製品1
棺外西 棺外鏡(三角縁神獣鏡)3・方形板革綴短甲1・漆塗靫1・矢箭(鉄鏃)25・槍2・
南小口 板状鉄斧1・有袋鉄斧2・鉄剣4以上・?5程度・不明鉄製品1
⑥鴨都波二号墳(同右)
方墳(一辺約八・五メートル)。多量の布留式土器が出土。
⑦鴨都波三号墳(同右)
方墳(一辺約一〇数メートル)。緑色凝灰岩製の管玉や布留式土器が出土。
⑧山本山古墳(同右)
前期の前方後円墳の可能性があるとも言われているが、詳細は不明。四世紀代の築造と推定される。

以上のように、葛城南部の地域では前期の大型古墳は見当たらず、五世紀初頭に出現する室宮山古墳との格差は決定的である。しかし、出土遺物に目を転じてみると、三角縁神獣鏡をはじめとする豪華な副葬品を有していた⑤鴨都波一号墳の存在が注目される。この古墳は済生会御所病院の増築工事に伴って、平成十二(二〇〇〇)年一月から九月にかけて御所市教育委員会によって調査されたものだが、その副葬品は四世紀代の葛城南部において群を抜いている。したがってこの古墳の被葬者は四世紀代の葛城南部の地域における、最高級の有力首長の一人であったと考えられる。では、それはどのような政治集団の首長であったのか。
この疑問を解く手がかりは、その所在地にある。この古墳は、実は弥生時代の拠点的大集落として知られる鴨都波遺跡(南北約五〇〇メートル、東西約四五〇メートル)の西北端に位置しているのである(図5を参照)。⑥⑦や⑧も同様で、おそらく②もこの遺跡と関係
しているものと思われる。では、鴨都波遺跡と深い関わりを有するこれらの古墳の被葬者たちは、どのような集団に属していたのか。それはこの遺跡上に鴨都波八重事代主命神社が鎮座していることから知られるように、鴨集団であったと考えられる。
以上の古墳とともに見逃せないのは、径約五〇メートルの規模を持つ①寺口和田13号墳である。この古墳の被葬者もまた鴨集団の首長とともに四世紀代の葛城南部における首長層を形成していた人物であったと考えられるが、ここで注目されるのは、この地域の古墳が五世紀代になると急速にその規模を縮小していることである。こうした古墳の在り方は鴨集団のそれと共通し、五世紀代には巨大な葛城集団に従属する一集団となっていたことが推測される。
これを要するに、四世紀末前後の時期に葛城南部の地域では、鴨・寺口和田らの集団から葛城集団への首長交替があったと推測されるのである。

四、 鴨集団の服属神話
鴨集団のヤマト王権への服属を語る神話が、『紀』神代下(第九段の一書の第二)に記されている。

是(ここ)に、大己貴神報へて曰(まう)さく、「天(あまつ)神(かみ)の勅敎(のたまふみこと)、如此(かく)慇懃(ねむごろ)なり。敢(あ)へて命(おほせこと)に從(したが)はざらむや。吾が治(しら)す顯露(あらは)の事(こと)は、皇(すめ)孫(みま)當(まさ)に治(をさ)めたまふべし。吾(われ)は退(さ)りて幽事(かくれたること)を治めむ」とまうす。乃ち岐(ふなとの)神(かみ)を二(ふたはしら)の神(かみ)に薦(すす)めて曰さく、「是(これ)、當(あたり)に我(われ)に代(かは)りて從(つか)へ奉(まつ)るべし。吾、將(まさ)に此(ここ)より避去(さ)りなむ」とまうして、?ち躬(み)に瑞(みつ)の八(や)坂(さかの)瓊(に)を被(お)ひて、長(とこしへ)に隱(かく)れましき。故、經津主神、岐神を以て鄕(くにの)導(みちびき)として、周流(めぐりあり)きつつ削平(たひら)ぐ。逆命(したがはぬ)者(もの)有るをば、?ち加(また)斬戮(ころ)す歸順(まつろ)ふ者(もの)をば、仍(よ)りて加(また)褒美(ほ)む。是(こ)の時(とき)に、歸順ふ首渠(ひとごのかみ)は、大(おほ)物(もの)主(ぬしの)神(かみ)及び事(こと)代(しろ)主(ぬしの)神(かみ)なり。乃(すなは)ち八(や)十(そ)萬(よろづ)の神(かみ)を天(あまの)高市(たけち)に合(あつ)めて、帥(ひき)ゐて天(あめ)に昇(のぼ)りて、其(そ)の誠款(まこと)の至(いたり)を陳(まう)す。
時(とき)に高(たか)皇(み)産靈(むすひの)尊(みこと)、大(おほ)物(もの)主(ぬしの)神(かみ)に勅(みことのり)すらく、「汝(いまし)若(も)し國(くにつ)神(かみ)を以(も)て妻(つま)とせば、吾(われ)猶(なお)汝を疏(うと)き心(こころ)有(あ)りと謂(おも)はむ。故(かれ)、今(いま)吾(わ)が女(むすめ)三(み)穂(ほ)津(つ)姫(ひめ)を以て、汝に配(あは)せて妻とせむ。八(や)十(そ)萬(よろづの)神(かみたち)を領(ひき)ゐて、永(ひたぶる)に皇(すめ)孫(みま)の爲(ため)に護(まも)り奉(まつ)れ」とのたまひて、乃(すなは)ち還(かへ)り降(くだ)らしむ。

この神話では、大物主神が帰順した首領の中心の神として記されているが、これは後代の改変によるものであろう。神話のなかで、三輪山から遠く離れた高市御県(たけちのみあがたに)坐(ます)鴨事代主(かもことしろぬし)神社(橿原市雲梯(うなて)町の河俣神社に比定される)が鎮座する高市郡(「天高市」)に八十万の神が集められたと語られていることからすると、この神話の本来の形は事代主神のヤマト王権への服属を語るものであったと考えられる。
とすると、その時期は四世紀末前後であったとみるのが、考えられる限りにおいて最も自然である。なぜなら、畝傍山近傍の地を制圧し、そこに初めて宮居(軽島豊明宮)を営んだのは四世紀末の争乱に勝利した、『記』『紀』にホムダ(タ)ワケノミコトの名で語られている応神であったからである((5))。
一方、その応神と四世紀末の争乱の史実を背景として成立した「原神武伝説」により近い『紀』の神武の伝承は、別稿で考察したように((6))、事代主神服属神話と不可分の関係にある。神武が事代主神の娘を后(きさき)にしたと伝え、また神武や事代主神の血を引く綏(すい)靖(ぜい)・安(あん)寧(ねい)・懿(い)徳(とく)の各天皇の陵墓が高市御県坐鴨事代主神社の鎮座する畝傍山近傍の地に営まれたと伝えているのも、事代主神を奉斎する鴨氏との関わりから生じてきたものである。してみると、その時期は「原神武伝説」が形成された四世紀末~五世紀前半をおいて他には考えにくい。
このようにみてくると、四世紀末の争乱によってその権力の座を追われた葛城南部の鴨集団らの神々も、高市郡の鴨集団の神とともに王権に服属した「八十万の神」のなかに含まれていたとみるのが妥当である。そして事代主神がその後もなお王権の直轄領たる高市御県のなかに鎮座していることからすると、四世紀末の争乱ののち王権に服属した高市郡の鴨集団はその後、神話が語っているように「永(ひたぶる)に皇孫(すめみま)の爲(ため)に護(まも)る」神、すなわち王権を守護する神に変貌していったことが考えられる。事代主神が『出雲(いずもの)國造(くにのみやつこ)神賀詞(かむよごと)』(『延喜式』巻八)のなかで、王権に服属して「皇御孫(すめみま)の命(みこと)の近き守り神」になったといい、また壬申の乱のときに「皇御孫命」(大海人皇子)を守護したというのも、おそらく四世紀末ないし五世紀初頭以来のこうした伝統によるものであろう。

むすび
以上論じてきたことをまとめてみると、次のようになる。
(1)古墳の在り方から考えると、四世紀末前後の時期に葛城南部の地域において、鴨・寺口和田らの集団から葛城集団への首長交替があったとみられる。
(2)一方、高市御県に鎮座する事代主神の服属神話や神武の宮居伝承・后妃伝承などを手がかりに、その時期を探ってみると、畝傍山近辺を制圧してこの地に宮を構えた応神の時代(四世紀末~五世紀初頭前後)であった公算が最も大きい。
このようにして、(1)と(2)は、鴨集団らの王権への服属が四世紀末~五世紀初頭前後の時期であったという点において、ともに一致する。これは決して偶然ではなく、葛城南部の伝統的勢力を代表する鴨集団は、四世紀末の争乱の結果、ヤマト政権の最高首長の権力を背景として当地域に入植してきた葛城集団に、そのリーダーの座を明け渡したことが推察されるのである。
〔注〕
(1)塚口「葛城氏の発展と没落」(『ヤマト王権の謎をとく』所収、学生社、一九九三年)。
(2)塚口「四世紀後半における王権の所在」(末永先生米寿記念会編『末永先生米壽記念 獻呈論文集』坤、所収、奈良明新社、一九八五年)、「佐紀盾列古墳群とその被葬者たち」(『ヤマト王権の謎をとく』所収、学生社、一九九三年)などを参照。
(3)以下の叙述は、御所市教育委員会『葛城
の前期古墳 鴨都波一号墳』(学生社、二〇〇一年)および藤田和尊氏(奈良県御所市教育委員会)の御示教に負うところが多い。
(4)改訂新庄町史編纂委員会編『改訂新庄町史』本編(新庄町役場、一九八四年)、伊藤勇輔・楠元哲夫『日本の古代遺跡6奈良南部』(保育社、一九八五年)
(5)塚口「〝神武東征伝説〟成立の背景」(『東アジアの古代文化』一二二号、大和書房、二〇〇五年)。
(6)詳しくは、塚口「神武天皇と大物主神」(『三輪山の神々』学生社、二〇〇三年)を参照。

〔挿図出典一覧〕
図1 王寺町史編纂委員会編『新訂王寺町史〈本文編〉』(王寺町、二〇〇〇年)
図2 〔注〕(1)と同じ
図3 〔注〕(3)の報告書
図4 〔注〕(3)の報告書
図5 〔注〕(3)の報告書

« 出雲の古代を探る③ | トップページ | 法隆寺から三室山へ »