出雲の古代を探る①
2008年10月23(木) つどい250
大阪梅田=(中国道)=ホテル大山=妻木晩田遺跡=上廃寺跡=向山古墳群=淀江歴史民族資料館=JR米子駅(ホテル)
⑮
妻木晩田(ムキバンダ)遺跡
四隅突出型墳墓
淀江民族歴史資料館
高層櫓
羽飾りをつけた漕ぎ手
妻木晩田の時代(西暦0年~200年前半頃)
鯨面武人
水鳥
下半身トルソ
遺跡内資料館
菅玉、碧玉飾り
鏡
四隅突出型墳丘墓(21基 1C中~2C前半)
古墳の出現(3C 晩田山古墳群)
岩屋古墳
上淀廃寺跡
金堂跡
壁画痕
第一日目end
十月二十三日〈第一日目〉
妻木晩田遺跡~上淀廃寺跡~向山古墳群
~淀江歴史民俗資料館
梅田茶屋町のバスターミナルを九時にご案内してくださる塚口義信先生と参加者三十五名(豊中歴史同好会の会員は十八名)が米子へ向けて出発しました。天気は曇り、今にも雨が降りそうです。旅行の幹事の山口武さんは天気のよくなる「お札」をお寺でもらってきてくださいました。塚口先生も最近は晴れ男、期待しましょう。
バスの中では先生から古代出雲の歴史について、文献と考古学の両面から講義をしていただきました。事前にお話を伺うことで、ますます出雲への期待が高まります。
まだ紅葉には少し早い大山のホテルで昼
食の後、妻木晩田遺跡に到着しました。
【妻木晩田遺跡】
ゴルフ場開発にともない偶然発見された弥生時代の遺跡。大山山麓に存在したであろうクニの中心的な大集落と考えられています。人々が住み始めるのは弥生時代の中期末。弥生時代後期初頭になると、洞ノ原西側丘陵に環濠が掘られ、洞ノ原東側丘陵に四隅突出型墳丘墓が作られました。ムラの人口が増えるにつれて、住まいの範囲は広がっていき、妻木晩田遺跡が最盛期を迎える弥生時代後期後葉には住まいの範囲が遺跡全体に広がります。しかしこの時代を境に、ムラは少しずつ衰えていき、古墳時代の初め頃には住まいがほとんど見られなくなります。
ボランティアガイドの木村さんの案内で
広大な遺跡を見学しました。洞ノ原東側丘陵には様々な四隅突出型墳丘墓があります。小さな四隅突出型墳丘墓は子どものお墓でしょうか?
高台から見る雄大な日本海と弓ヶ浜の景色はすばらしく、弥生人も良い所に住んでいたなと感心しました。
多目的広場の近くの「骨格復元竪穴住居」は建物全体を支える四本柱や垂木を組み合わせた骨組みなど、当時の高い建築技術が使われていることが分かります。
「草屋根竪穴住居」や高床式倉庫なども見学し、バスに帰る途中、韓国の先生を案内されていた、以前会でお世話になった元豊中市教育委員会の柳本照男先生にお会いしました。お変わりなくお元気そうで、なつかしかったです。
【上淀廃寺跡】
奈良時代の初めに建てられた寺院跡。平安時代の後期に火災で焼け落ちたと考えられています。平成三年からの発掘調査で、金堂跡から法隆寺と並ぶ、国内最古の白鳳期の仏教壁画が、粘土で作った仏像の破片とともに出土しました。
ボランティアの新見さんから、まず金堂跡の二段構造の瓦積基壇や心柱を支える巨大な北塔心礎について説明を受けました。 丘の上に立つと向山古墳群の彼方に日本海が見え、壷瓶山の手前には淀江平野が広がっています。この場所も景色は抜群です。
【向山古墳群】
公園として整備された「伯耆古代の丘公園」にある古墳群。西伯耆を代表する五~七世紀の前方後円墳が密集しており、この地方の首長系譜をたどることができます。
最初に訪れた岩屋古墳(向山一号墳)は、全長四八メートルの前方後円墳。一枚岩をくりぬいた見事な入口から石室に入ることができます。中は結構広く、側壁も天井もすべて一枚岩です。壁には朱色が残っていることが確認できました。公園の中を秋の気配を楽しみながら、他の古墳(向山二~八号墳)も見学しました。
【淀江歴史民族資料館】
上淀廃寺の壁画は火災によって、変色していましたが、形はよく分かり、復元された壁画で当時の姿を偲ぶことができました。国の重要文化財の石馬、瓶の首に絵が描かれた土器、水鳥・鹿・人の埴輪などの淀江から出土した資料が展示されていました。
ホテルハーベストイン米子に到着。夕食時にはビールとご馳走を前に、自己紹介がありました。みなさんの古代史への熱い思いが伝わり、感激しました。明日はいよいよ出雲の遺跡と古墳を見学します。
(つづく)