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五世紀のヤマト政権と葛城

つどい248号
御所市教育委員会 藤田和尊先生

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つどい248

五世紀のヤマト政権と葛城
 御所市教育委員会 藤田 和尊


一はじめに
 かつて二〇〇四年一〇月に「考古学からみた葛城氏の盛衰と葛城県の成立」と題する講演を本会においてさせて頂いたことがあり、この度の内容とは重複する部分も多い。そこで今回は、今年度の共通テーマとなっている「五世紀のヤマト政権」の方にやや重点を置きながら、そのなかで葛城がいかなる役割を果たしたか、という視点により述べることにしたい。なお、五世紀のヤマト政権に関する私の主張は拙著『古墳時代の王権と軍事』(二〇〇六年、学生社)に拠るところが多いので、よろしければ参照されたい。

二.河内政権論
 応神天皇以降、大王墓の造営地は大和か
ら河内へと移動する。こうした大形前方後円墳の移動現象から「王朝交替」論のうち「河内政権」論が唱えられた。
 文献史学者からの反論としては①王宮の所在が大和であることも多いこと、②河内には中小の豪族しか存在しなかったこと、③有力氏族の拠点が大和と河内にまたがること、などが挙げられているが、①については後述するとして、②については日葉酢媛陵古墳の主体部構造と共通性をもち、陪冢の祖形を伴う柏原市所在の松岳山古墳の被葬者、さらに述べれば佐紀盾列古墳群の被葬者集団のうち、前期後葉に河内に進出してきた勢力、からの系譜を想定することも可能であるし、③についてはその方法上時期の特定ができず、五世紀以降の状況に過ぎない可能性も高いとみられ、共に河内政権を否定する根拠にはならない。
 考古学側の議論については割愛するが、いずれにせよ文献史学・考古学を含めて、この問題について検討する際に材料とされるのは、大和・河内を中心とする畿内中枢部の資料のみという場合が大半を占め、同一事象が解釈次第で賛否両論いずれの論拠としても用いられる事も少なくないといった現状が、未だ決定打を欠く要因になっている。
 この問題を解く鍵は中央ではなく周縁(地方)にある。五世紀(古墳時代中期)の甲冑は畿内政権からの一元的供給(再配分)が確実視される遺物である。この甲冑が各地の古墳にどのように供給され、受用されたかの検討は、この古代史上の重要問題について大きな示唆を与える。
 表1では中期初頭の各地の甲冑出土古墳のうち、中小規模のものを取り上げている。前期から続く伝統勢力と、中期から始まる
新興勢力に分けると、伝統勢力はそれまでに導入されていた竪穴式石室や粘土槨を内
部主体とするのは当然のことといえる。一方の新興勢力はそれぞれの地域に特徴的な内部主体、例えば地下式横穴墓や舟形および箱形石棺などを採用するのが特徴的である。
 それぞれへの甲冑の供給のされ方をみると、伝統勢力には短甲と頸甲はあるが、冑の副葬はみられない。他方、新興勢力には短甲、頸甲のほか、冑もセットで副葬されている。
 これは非常に奇妙な事態ではないだろうか。つまり、前期の畿内政権がそのまま素直に中期の畿内政権に移行したとすれば、前期以来影響を与え続けてきた伝統勢力にこそ篤く遇して甲冑はセットで与え、新興勢力の方にはそれより劣った甲冑保有形態で与えた方が、地方経営のあり方として自然でかつ合理的である。にもかかわらず、それとは全く逆の事態となっている状況をどのように理解すればよいだろうか。
 また、以下でも同様のことがいえる。次に例示する筑前の老司古墳、鋤崎古墳、豊後の御陵古墳、臼塚古墳の四基の古墳は、九州地方における前期以来の首長墓系譜に載る、中期型甲冑を出土した首長墳で、いずれも地域を代表する前方後円墳である。
 老司古墳や鋤崎古墳は内部主体こそ進取の気風で初現的な横穴式石室を採用しているが、ともに前期以来の、在地に根ざした伝統的な大首長墳である。老司古墳では妙法寺二号墳、安徳大塚古墳から老司古墳、博多一号墳へ、鋤崎古墳では若八幡山古墳から鋤崎古墳、丸隈山古墳への首長墓系譜が想定され、また、御陵古墳では亀甲山古墳から蓬莱山古墳、御陵古墳へ、臼塚古墳では上の坊古墳や野間古墳群からの首長墓系譜が想定されている。
 これらの古墳ではいずれも冑も頸甲も有さない、短甲のみの副葬であり、これは先述の新興の中小勢力の方がむしろ、最も優秀な甲冑保有形態で甲冑三点セットを持っていたことを考えれば、極めて特異な状況というべきである。
 とりわけ、筑前・老司古墳や鋤崎古墳の場合には、転換期に相当したためか、それぞれの古墳の中心的な被葬者自身も中期型甲冑の所有に消極的であったことが判り、興味深い。老司古墳の中心主体である三号石室からは舶載品とみるべき特殊な構造の籠手や肩甲のほか、草摺と三尾鉄が単体で出土しているが、甲冑出土古墳として通常見られるべき短甲は、副次的な埋葬施設である二号石室に副葬されていた。また、鋤崎古墳の場合には短甲は追葬棺に伴う遺物であった。このことから、未だ十分には「まつろわぬ者」に対して、中期畿内政権は甲冑をセットでは与えず、一方で、かれら前期以来の在地首長も中期型甲冑に重きを置かないと言った、双方の根底にある対立した意識が見えてくる。
 改めて述べよう。中期の畿内政権が、前期のそれと同じ系統の上に成り立っていたとするならば、その地方経営は、前期以来の在地の大首長や表1に掲げた中小の伝統勢力の方を軸に展開させるのが自然かつ合理的である。ところが事実はそれとは異なり、中期の政権はむしろ、新興のしかも中小の首長の方をより篤く遇しているのである。
 これら一見矛盾するかにみえる事例は、中期畿内政権が、地方において新たな勢力を興し、甲冑の配布などを通じてむしろそれらを篤く遇することにより旧来の伝統的とも言うべき在地首長層を牽制し、ひいては、彼らをも、自らの勢力下に収めようとする政策の顕現したもの、と評価できる。
 地方経営に際しての、この前期とは整合性の認められない政策の存在は、前期以来の畿内政権がそのまま中期に入っても継続して地方に対応したとするには明らかな矛盾を呈するものということができ、これは前期と中期の畿内政権の間には連続性が無いこと、すなわち、系統の違いがあることの明確な証左である。
 本日のテーマの葛城のみならず、各地の動向を語ろうとするときに、この河内政権があったとして論じるのとそうでないのとでは、大きな理解の差が生じる事はいうまでもない。

三.佐紀盾列勢力に対する包囲網の形成
 奈良盆地において、中期中小規模墳は盆地西南部に集中する。この地域は前期古墳の分布が稀薄で、あっても中小規模墳しか存在しなかった。五條あるいは宇陀も含めて、盆地西南部の中期中小規模墳は、従前の系譜を引かず、中期に入って新興した勢力が大半を占め、さらに副葬品に河内政権から供給された甲冑を有するものも目立つことから、政権により、意図的に配備された勢力ということができる。
 室宮山古墳(図1)は墳長二三八メートルと破格の規模を誇る。佐紀盾列古墳群のコナベ古墳の墳長を上回り、五世紀前葉にあっては奈良県内最大の規模である。長持形石棺の存在は著名であるが、ネコ塚古墳という陪冢を伴っており、陪冢に多量の武器・武具の集積が認められることも重要で、
これは百舌鳥・古市古墳群に顕著にみられる、陪冢被葬者に職掌を委ねた武器・武具
集中管理体制が、室宮山古墳の被葬者の下でも行われていたことを示すものである。
 そして室宮山古墳もまた中期に入って突如出現する大形墳であり、さきに河内政権により意図的に配備されたと記した、盆地西南部に新興する勢力の、まさに核ともいうべき存在として機能した。
 さて、佐紀盾列古墳群は前期後半段階においては大王墓級の大形墳を数世代に亘って擁し、中期に入っても百舌鳥・古市古墳群には及ばないとはいえ、大形墳を築造し続けている。河内政権がその成立後も佐紀盾列勢力の存続を許したのは、おそらく婚姻などを通じて政権の正当性を継承する必要があったためとみられるが、河内政権側にとっては危険な存在であることに変わりはない。
 その対応策の一つが室宮山古墳被葬者を核とする盆地西南部への新興勢力の配備であり、さらに東南部の畿外へと通じるルートには、陪冢を有する殿塚古墳を擁する美旗古墳群の勢力を、北部へと通じるルートにはやはり陪冢を有する久津川車塚古墳(図2)を擁する久津川古墳群の勢力を配備した。奈良盆地西南部の馬見古墳群の勢力は、後述するように室宮山古墳被葬者の
出身母体とみられる。
 まさに包囲網の完成である。河内政権はこのようにして旧来の佐紀盾列古墳群の勢力を押さえ込もうとしたとみられる。
 ところで、五世紀代の王宮が大和にあることも多いことから、河内政権を否定する見解があることは既に記した。しかし、それら王宮の所在地は奈良盆地の南部、つまり新興勢力が配備されたとみた地域、もしくは盆地東南部の王権発祥の地と重なる。河内政権が存在するとみた場合、奈良盆地内部の王宮の立地としては実に相応しいものといえ、これらの王宮が前線基地としての性格を持っていたとする所以である。

四.馬見古墳群の性格
 当日はこの論点については時間の都合で割愛したが、この機会に補っておく。かつて小林行雄氏が京都府椿井大塚山古墳や岡山県備前車塚古墳の被葬者を鏡の配布者と見なしたのは、両墳が三角縁神獣鏡の同笵鏡分有の中心的な位置にあるからであった。しかしながらこの状況は、各種の三角縁神獣鏡が一面ずつ偶然にこの両墳に集められた場合でも生じうる。小林氏はそれを否定するために、三角縁神獣鏡は五面一組を限度として鋳造された、との前提を掲げた。このことにより、五面すべてが知られる場合、残る鏡は存在しないとの理由から、両墳の特異性を際立たせたのである。
 しかしこの前提は崩れて久しい。ある一種に至っては一〇面にも達する同笵鏡が知られるようになっており、このことにより同笵鏡五面が既に投入されている場合にも、第三者の手元に同じ種類の同笵鏡が数多く残っている可能性を否定できなくなった。
 黒塚古墳の調査を待つまでもなく鏡の保有形態の検討から推測できたように、前期古墳の鏡はやはり大和から直接配布されたと考えるべきであり、そしてその配布者には二系統があったと考えている。
 ひとつは大和東南部および北部に本拠を置く大王家の勢力で、各地に鏡を配布するに際しては頭部集中型で鏡を配置する因習を伝えた。もうひとつは大和西南部に本拠を置く勢力で、これは頭足分離型の因習を伝えた。
 当時にあって大王家と異なる因習を保ち、大和の西南部にあって全国にその影響を及ぼす事のできる勢力としては、考古学上では馬見古墳群、文献上では葛城氏を除いては考えがたい。
このことから馬見古墳群の被葬者像としては葛城氏を想定すべきであると考え、馬見古墳群の前期古墳の被葬者をプロト葛城氏と位置づけ、武内宿禰は、古墳時代前期に馬見古墳群に代々葬られたプロト葛城氏の事績を象徴するために設けられた人物像と想定する。

五.葛城本宗家の盛衰
 河内政権の成立は無論、葛城氏をも巻き込んでその編成に大きな変化が生じる。それが塚口義信氏の指摘にかかる葦田宿禰系葛城氏と玉田宿禰系葛城氏への分割(図3)
であり、考古学的には南葛城における室宮
山古墳の突然の出現である。その被葬者は
旧来の大和の勢力に対する包囲網の核として機能したことは先述したが、その出現の経緯としては河内政権の強い意志の下、葛
城氏の本貫地である馬見古墳群から離れて突如として築造された古墳とすることがで
きる。
 そして河内政権としては、強大な葛城氏の勢力を二分し、新興の南葛城の勢力、おそらくは玉田宿禰系、をより強くバックア
ップすることにより、大和における自らの勢力の浸透を図ったものとみられる。ところが一定の目的、それは佐紀盾列古墳群勢力が消滅し、包囲網が不要になることを意
する、が達せられると、玉田宿禰系葛城氏は円大臣の記事にみられるごとく誅せられ
て一気に衰退するのである。
 この間の事情は南葛城における大形古墳の消長ともよく合致する。まず、室宮山古墳は墳長二三八メートルを測る五世紀前葉
においては大和最大の古墳で長持形石棺を竪穴式石室に納め、しかも陪冢を伴う。船形陶質土器(図4)などの出土も知られ、古墳の時期、格、彷彿とさせる遺物の存在
からも葛城襲津彦こそその被葬者に相応しい。一方、南葛城最後の大形前方後円墳は五世紀後葉の掖上鑵子塚古墳(図5)である。前方部は通常の前方後円墳に比して明らかに短く、規制の対象になった感があり、壕もこの時期の大形古墳としては稀なこと
に同一水面では巡らない。なにより奈良盆地からわざわざ見えないように押し込められているかの立地は特異でさえあり、悲劇的な最期を遂げる円の大臣の奥津城に相応しいといえる。また、両者の間の時期に位置づけられる玉田宿禰や「名欠」の人物の奥津城の候補としては、旧新庄町域の火振山古墳や屋敷山古墳を挙げることができる。

六.葛城県の成立と群集墳の動態
 巨勢山古墳群は総数七〇〇基を数える我が国最大の群集墳である(図6)。こうした大形群集墳が成立する背景として、白石太一郎氏は時期を問わず、近在する大形前方後円墳被葬者を共通の祖先とみなすことにより自らの出自を示し、政権内での位置を保とうとする擬制的大同族関係を想定した。
 巨勢山古墳群の被葬者集団の場合には室宮山古墳被葬者を共通の祖先とするものと想定されているわけであるが、近年の巨勢山古墳群の調査は、この見解に対して次のような疑問を投げかけた。
 表2には巨勢山古墳群内の前方後円墳を挙げているが、これらには次のような共通の特徴がある。まず第一に墳丘規模が三〇
~四〇メートル程度であること、第二に築造時期は五世紀後葉以降六世紀中葉までと、意外に新しいこと、第三に主体部は簡易な木棺直葬であること、第四に副葬品は、巨勢山古墳群内において併行する時期の円墳などに比しても総じて貧弱であること、などである。
 五世紀後葉以降という時期は円大臣を最後とする葛城本宗家の滅亡を想起させ、また、主体部が簡易で副葬品も貧弱であること、しかし墳形は、巨勢山古墳群において
この四基のみしか知られない前方後円墳で
あることを勘案するならば、その被葬者像として、葛城本宗家の残党のごとき勢力を想定するのが妥当である。
 一方で、その他大半を占める円墳は、ときに横穴式石室を内部主体とし、金銅装馬具を副葬するものも少なからずある。いかに擬制的とはいえ、同族関係が古墳群全体の共通の理念として機能していたとするなら
ば、このような逆転現
象は生じ得

ない。
 そこで巨勢山古墳群は、支群ごとに個性が顕著であるという特徴に注目したい。そ
れはたとえば、渡来系の要素の目立つ支群、六世紀に入るやいなや横穴式石室を採用する支群、逆に六世紀後葉に至っても木棺直葬を採用し続ける支群などの差異を指し、このように支群ごとの性格は実に多様であり、これは通常の群集墳にはみられない特
徴である。
 つまり巨勢山古墳群は多様な集団の共通の墓地として設定され、その上位には集団ごとの墓域を調整し、それぞれに定められた墓域を賜与することのできる権力が存在していたことを示す。葛城本宗家は既に滅亡しているのだから、その権力とは政権以外には考えがたい。このように五世紀後葉以降の巨勢山古墳群は、政権に様々な職掌をもって仕えた原初的官僚層の墓域として設定されたとみられ、それは葛城本宗家の滅亡を契機として設けられたという葛城県の機能の一つともなったと考えられる。

七.おわりに
 誤解を恐れずに、あえてこのたびのわたくしの講演の位置づけを図るならば「河内政権の地方経営ー大和編ー」のなかで葛城がいかなる役割を果たしたか、ということになるだろう。冒頭で紹介した拙著の中で、各地の状況についても個別には触れているのではあるが、このような視座で北河内や和泉、さらには全国を見つめ直してみるのもテーマとしておもしろいのではないかと改めて考えさせられた。今後の研究方針の一端について、貴重なヒントを得る契機を与えてくださった本会の皆様に深謝したい。

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