5世紀のヤマト政権と北摂
つどい247号
大阪大学埋蔵文化財調査室 助教寺前直人先生
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五世紀の大和政権(倭王権)と北摂
-小古墳の被葬者たち-
大阪大学 寺前直人
はじめに
こんにちは、大阪大学の寺前です。今回は五世紀に北摂地域でも増加する小古墳の被葬者像をとおして、五世紀の倭王権の地域支配施策を読みとっていきたいと思います。
二〇〇〇年の川西市勝福寺古墳の調査以来、私は大阪大学豊中キャンパス内にある待兼山5号墳、そして去年から開始した宝塚市長尾山古墳と猪名川流域の古墳の調査をしてきました。この地の古墳の特徴は一言でいうと畿内周辺部であるという点です。奈良盆地や大阪南部では数多くの三〇〇メートルをこえる大型前方後円墳が築造されますが、淀川流域では最大の茨木市太田茶臼山でも二二七メートルなのです。これは摂津に住む方々には少し寂しいですよね。地域ごとの古墳の規模が、なんだかその地域の当時の勢力のありかただとか、地域間の優劣を示す、ひいては現代の我々にとっても自分が住む町の歴史の長短や深さだと感じてしまいがちです。私はこれを「甲子園モデル」とか呼んだりします。このような感覚は戦後の一時期にはかなり違っていたようです。大きな古墳は支配者の墓であり、いわば住民を搾取した抑圧者だから、大きな古墳をつくった地域の住民はむしろ疲弊していたのではないか。これは言い過ぎかもしれませんが・・。とにかく「階級間闘争モデル」というべき理解が有力であった時期がありました。どちらが「正しい」かという議論はここではこれ以上しませんが、少しだけ今日のお話を聞くなかで意識していただければと思います。
さて、話がだいぶ脱線してしまいました。先に結論からいうと北摂、豊中市や池田市・吹田市・箕面市の古墳は貧弱であるといえます。では、なぜ貧弱なのか、それは倭王権の地域支配のパイロット(試験)事業地としてこの地が「中抜き支配」の順調な進展をみせるからなのです。「中抜き支配」とは、地域独自の権力者の伸長を抑制しつつも、より小単位での権力者を優遇することにより、地域ごと、規模としては現代の市長ぐらいをイメージしてもらうといいんですが、このぐらいの規模ごとの支配者の権力を弱める一方で、自治会長さんくらいの有力者と中央が直接結びついて、中央権力、この時代の倭王権が地域支配を円滑に進めるという施策が実行されていたからだと、私は考えています。
一 小古墳をめぐるこれまでの研究
地方の小古墳をめぐっては、長い研究史があります。例えば、石部正志さんは当時発見が相次いでいた弥生時代の方形周溝墓に注目して、古墳時代前期にも連続して弥生時代と同じ墓制が営まれることを指摘し、これを「古式群集墳」と名付けています。
さらに一九七〇年代以降、地下鉄や高速道路の建設により大阪市平野区の地下に百基
以上の膨大な小古墳が眠っていることが明らかとなってきました。この長原古墳群と、
藤井寺市から羽曳野市に展開する古市古墳群とは直線でおおよそ五キロメートルと近接しています。このような状況に対して、広瀬和雄さんは「長原古墳群に結集した(正確にはさせられたと言うべきであろう)多くの人格は、前方後円墳を造営した王との二次的な政治関係を形成しながら、なかばヤマト政権との第一次的政治関係に組み込まれつつある原初的な『官僚』と評価できるのではなかろうか」として、弥生時代の系譜をひくという理解を示した石部さんらとは異なる見解を示しました。この長原古墳群に対する理解は、大阪府北部、北摂における小古墳の問題を考えるうえで重要な意味をもっています。
また、立命館大学の和田晴吾さんは南山城地域の古墳の動向を概観するなかで木津川市の上人ヶ平遺跡などにみられる低墳丘で一辺一〇メートル前後の規模をもつ中期の墳丘墓を「小型低方墳」と呼び、「弥生時代以来の方形周溝墓の伝統を引く有力な共同体成員とその家族のものと捉え、後期(本稿の中期後葉)の群集墳とは一線を画し」ているとしました。そして、「小型低方墳の被葬者にまではまだ直接的な政権の影響は及んでいない」としたのです。さらに広瀬さんらが王権との直接的な関係を想定し、原初的な官僚層の墓制とした長原古墳群を「群集墳に先立って、政権に掌握された渡来人をも含む有力家長層の墳墓であると推定される」が、「 特定の墓域に数多く集中して築かれていること、言い換えれば、在地を離れて営まれているものも(あると)考えられることを除けば、他の小型低方墳と質的にはほとんど変わらない」と解釈しました。
和田晴吾さんは小規模古墳の展開のなかで円墳化という点を非常に重視しているのに対し、方墳の段階でも他の研究者は副葬品や密集度、立地などから官僚的なものがすでに存在していることを主張します。今回はこの問題をまったく違う角度から検討してみたいと思います。それは大規模古墳に付随して築造される小古墳、いわゆる陪塚の変遷です。
二 大王墓に付随する小古墳
陪塚とは、大型の古墳に従属する小型の古墳のことです。主墳となる大型古墳とほぼ同時期に築造され、計画的に配置されたものが一般的に陪塚と呼んでいますが、主墳と周辺の小古墳の両者が陵墓として管理されているものが多いため、実際にはその内容が不明なものがほとんどです。ただし、発掘調査により副葬品などが判明している陪塚もあります。例えば、古市古墳群に位置する藤井寺市西墓山古墳やアリ山古墳、そして野中古墳からは千点をこえる鏃や刀剣、あるいは十セットをこえる甲冑が出土しています。
陪塚に対する評価は、戦前の高橋健自さんまで遡ります。一九二二年、高橋さんは『古墳と上代文化』のなかで陪塚を主墳に対して陪従して造営された古墳であるとし、
被葬者を皇族あるいは臣下であると推定しています。その後、堺市カトンボ山古墳な
どが発掘され、しだいに大型古墳に付随する小古墳の埋葬施設のありかたが明らかとなっていきます。そのなかで、西川宏さんは先にあげた陪塚の定義をあげ、首長の権力行使の実務を担う官僚的階層の成立をよみとったのです。そして先にあげたアリ山古墳や野中古墳における多量の鉄製武器集
積から北野耕平さんは軍事的職能を担った存在を読みとったのです。
いずれにせよ、百舌鳥・古市古墳群のいわゆる大王墓クラスに付随する小古墳のありかたから、大王に付随して組織化された各種権力の執行補助者、すなわち原初的官僚層の墓制であるという理解が今日では通説となってきているといえるでしょう。
このような理解で陪塚の変遷をみてみる
と興味深い事実が、藤井寺市教育委員会の山田幸弘さんにより指摘されているのです。まず、中期初頭(集成Ⅳ期)の佐紀盾列古墳群中の石塚山古墳には三基の方墳が後円部
側に付随しています。つづく中期前葉(集成Ⅴ期)には古市古墳群中の墓山古墳、百舌鳥
古墳群中の石津丘古墳、佐紀盾列古墳群中のコナベ古墳などで方墳を主体とした陪塚がみられますが、なかには石津丘古墳に付随する七観山古墳のように多数の武器・武具が副葬された直径五〇メートルの円墳も認められるようになります。誉田御廟山古墳などが築造される中期中葉前半(集成Ⅵ期)においてもこの傾向は続きますが、次の大仙陵古墳の段階である中期中葉後半(集成Ⅶ期)において様相は一変します。
大仙陵古墳、藤井寺市市野山古墳、そし
て摂津最大の前方後円墳である太田茶臼山古墳などの陪塚のほとんどが円墳になるの
す。須恵器型式でいうとTK216・TK208型式期に生じるこの陪塚の円墳化の後、大古墳に陪塚が付随するということがほとんどなくなります。これは百舌鳥・古市古墳群での大古墳の築造停止、中期のおわりと同調した現象であるともいえます。実はこの現象と併行して展開するのが、最初に紹介した長原古墳群をはじめとする中期の群集墳なのです。
三 密集して築造される小古墳
では、次に大阪湾沿岸地域にひろがる古墳時代中期に属する群集墳をみていきましょう。まず、長原古墳群では二百基以上の古墳がこれまでみつかっていますが、中期初頭に属する塚ノ本古墳や一ヶ塚古墳、あるいは後期に属する南口古墳や七ノ坪古墳を除くとほとんどが一辺一五メートルに満たない方墳で占められています。またこれら大多数の方墳が属する時期は中期中葉(集成Ⅵ・Ⅶ期)から後葉(集成Ⅷ期)であると考えられています。
次に神戸市東灘区の住吉宮町古墳群をみていきましょう。住吉宮町古墳群は現在のJR住吉駅周辺に所在し、これまで七十一基の古墳がみつかっています(神戸市教育委員会二〇〇一)。古墳群の範囲は東西六〇〇メートル、南北二五〇メートルに広がっており、墳長五七メートルの前方後円墳と考えられる坊ヶ塚古墳と墳長二三メートルの帆立貝式古墳である住吉東古墳の二基以外は、一五メートル前後の方墳で占められています。TK208型式期(集成Ⅶ期)からTK23・47型式(集成Ⅷ期)を中心に多数の古墳が築造されたとみられますが、後期に属するものも五基以上認められます。
最後に茨木市総持寺古墳群をみていきましょう。総持寺古墳群は北摂山地から延びる富田台地上に立地し、太田茶臼山古墳の南約一キロメートルに展開する古墳群です。おおよそ一〇〇メートル四方の範囲に集中して四十三基の中期古墳が検出され、うち四十二基は一辺一四から四メートルの方墳でした。出土した須恵器や埴輪からTK73型式(集成Ⅵ期)からTK208型式期(集成Ⅶ期)に展開したとみられることから、中期中葉に属する古墳群なのです。
以上の中期に属する大阪湾沿岸地域の代表的な群集墳をみてきました。では、この墓制を営んだ人々は独自にこのような墓制を選択したのでしょうか、それとも王権との強い関係に基づきこの墓制を選択した(させられた)のでしょうか。まず、これらの古墳群はいずれも中期中葉(集成Ⅵ・Ⅶ期:TK73~TK208型式期)に盛行するものばかりです。これはさきほどの陪塚の伸長に照らし合わせると、ちょうど方形の陪塚がピークをむかえ、徐々に円墳化も進展する段階に相当します。つまり、方形の陪塚に後出して、これら小方墳を主体とする群集墳は築かれることとなるのです。
陪塚と小方墳群との関係は、埴輪の供給関係からもうかがうことができます。最初に紹介した摂津最大の前方後円墳である太田茶臼山古墳と総持寺古墳群とは非常に近接しており、わずか一キロメートル少々しか離れていません。そして太田茶臼山の北側一キロメートルには太田茶臼山古墳や後期の今城塚古墳に埴輪を供給したと考えられている新池埴輪窯跡があります。これらに加えて太田茶臼山古墳の陪塚から出土した円筒埴輪も分析され、興味深い成果があがっています。それは、それぞれの古墳に
使われた埴輪が胎土や大きさの規格に共通性があり、一部ですが表面の調整に使われた工具痕までが一致することなどが判明したのです。したがって、いずれの古墳の埴輪も新池という同一の生産地から供給されたと考えられるのです。もちろん、当時の大王墓に準じた規模を誇る太田茶臼山古墳の被葬者と、総持寺古墳群が別々に新池窯から埴輪を入手した可能性もあるでしょう。しかし、新池窯は太田茶臼山古墳に埴輪を供給するために開窯されたと考えられており、そもそも古墳時代に自由に焼き物が流通する体制を想定するのも難しいでしょう。むしろ、位置的な関係を含めて考えると太田茶臼山古墳の被葬者とその周辺に築かれた陪塚の関係と類似した、いわばその延長のような関係が太田茶臼山古墳の被葬者と総持寺古墳群を営んだ人々の間にはあったとみることができるのではないでしょうか。同様の関係は長原古墳群とその西側に位置する古市古墳群との間にも想定できるかもしれません。一方、住吉宮町古墳群にはそういった主墳となるような大型古墳を現状ではみいだすことはできません。むしろ、奈良県橿原市の新沢千塚古墳群や曲川古墳群に近い様相であるといえます。
このような理解、すなわち総持寺古墳群などの小方墳群を王権あるいはそれに準ずる権力と不可分な関係において築造されたという考えに対しては、なぜ方墳なのかという点で疑問をもたれるかもしれません。私は陪塚が方墳から出現している点を重視しますが、こような方形の墳墓の系譜を和田晴吾さんのように弥生時代の方形周溝墓の伝統であると理解する立場も有力です。
しかし、摂津地域では方形の墓を弥生時代の伝統であると一律的に理解するのは実は困難なのです。例えば、弥生時代後期から庄内期において西摂津地域では周溝墓が五十七基ありますが、そのうち半数近い二十七基が円形周溝墓で占められています。また、総持寺遺跡でも弥生時代後期末に属する周溝墓が四基検出されていますが、うち二基は円形周溝墓でした。したがって、摂津という地域でみると弥生時代のおわりには円形と方形がほぼ半々なのです。そして、古墳時代に入っても小円墳の築造は続きます。したがって、古墳時代中期にあらたに出現する密集する小方墳群は、みためこそ類似していますが弥生時代の伝統を引くから方形なのではなく、王権との関係から方形を選択した集団の墓制であると考えられはしないでしょうか。
おわりに
私は次のように考えます。それは古墳時代中期に入り陪塚制が導入され、それが拡大される形で新たに小方墳が成立する。つまり大王やそれに準ずる被葬者の配下、近習のような人々の墓制として、先行して形成された陪塚を範として成立したのが長原古墳群や総持寺古墳群なのではないでしょうか。そして、この小方墳は中期後葉にはいると途絶、あるいは新たに小円墳となることはすでに和田晴吾さんが指摘したとおりです。この豊島地域、いまの豊中市でも蛍池北古墳群(豊中市史編さん委員会二〇〇五)や、私が調査した待兼山5号墳がまさにその変化を示しています。
古墳時代中期中葉以降、太田茶臼山古墳を除くと六〇メートル以上の古墳を欠く北摂地域。私は以上のような古墳のありかたから、地元の勢力を排し、いち早く王権直轄地として発展を遂げた地域であると理解しています。そして、六世紀に入るとこの
直轄地にはじめて、大王墓として今城塚古墳が出現するのです。古墳時代中期に限れば、古墳の規模は畿内地域のなかで貧弱であり、北摂地域は最初の甲子園モデルに例えれば有力校不在の地といえるでしょう。しかし、小さな古墳が特徴的のありかたをみせるからこそ、それらを細かく検討することによって、当時の倭王権の支配の方針やその成果を知ることができるのです。このような立場から今後も摂津地域を中心に古墳時代の実像を明らかにしていきたいと思います。ご静聴ありがとうございました。【紙面の関係で参考文献は割愛しました】