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考古学・古代史研究の展望(上)

つどい245号   
芦屋市教育委員会 森岡秀人 先生

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 はじめに
 こんにちは。本日私に与えられましたテーマは考古学と古代史の接点から見た今日の研究の動向と今後を俯瞰する話で、年度の末ですから、何やら締めくくりの大任に当たってしまったようです。
 私は関西大学に在籍した頃、考古学は末永雅雄・網干善教両先生に師事し、日本古代史は横田健一・薗田香融両先生に学びました。日本考古学を専攻しつつも、非才ながら古代史の本もたくさん読み、言説に耳を傾ける多感な学生であったように思います。当時、大先輩の塚口義信氏は本会とも縁の深い先生ですが、十代の頃から大変優しく接して頂きました。本会の皆様は、随分前から考古学と古代史の両分野の学習活
動を現地探訪も挟みながら積極的に続けて来られ、市民としての問題意識の持ち方や意欲的な学びの姿勢の持続力に常々敬服いたしております。心を豊かにする知的な財産が頭や体に残るものと思います。
 さて、物質資料の語るところの限界から、考古学は日本古代史の成果に支援されつつ、新しい世界を求めてきました。現在は考古学の研究成果も古代史構築には不可欠な情報と実証をもたらしており、両者はなくては成らない協業関係にあると言えます。私は最近、地域の歴史像解明には、調査・研究に当たる者自体が可能な限り自身の中でこの共同作業の実践への努力を惜しんではならないと思うようになりました。私のように一つの地域に這い蹲って土地に刻まれた歴史を住民に分かりやすく解きほぐし、その素材を後世に保存し、伝えていく仕事をしておりますと、専門的な深さは全くありませんが、日本古代史の新しい研究動向にも目配りする必要があると考えています。

研究方向の整理と資・史料の性格の変容
 考古学研究や古代史研究のウェイトを歴史学研究会と日本史研究会が共編でこれまで四度世に出してきた講座本で確かめておくと、色々と興味深いことが分かります。
『日本歴史講座』全八巻(一九五六)、『講座日本史』全一〇巻(一九七〇)、『講座日本歴史』全一三巻(一九八四)、『日本史講座』全一〇巻(二〇〇五)と、都合四回にわたって日本全史の総括がなされていますが、前近代の分野が占める割合が徐々に高まっていくのがよく分かります。すなわち、黒田さんが既に指摘していることですが(「史料学の時代」の文化史、『歴史評論』七月号)、論文数の比較でも二六本三二パーセント→三六本三九パーセント→五五本四五パーセント→七一本六八パーセントの割合で増加の一途をたどっています。
 この講座は東京大学出版会から一五年~二〇年の間隔を置いて、社会の動き、時勢、研究動態が変わる頃に刊行されており、私も第二・三期に執筆された大阪大学の都出比呂志先生の高論を継承しつつ変革を捉えて、第四期に「農耕社会の成立」を書きました。二〇年も経つと、年代論をはじめ描かれる歴史像は変化することがよく分かりました。
 考古学の研究対象である遺跡・遺構・遺物はもちろん有限のものですが、何がどれ位あと地中に眠っているかは難題なことでして、銅鐸のように論理的に埋蔵数が予知されることもありますが、通常は未知の数字が議論されることはありません。最近、長野県北部で九州系の銅戈や大阪湾型銅戈が出土しましたが、これなども予測の域を超える東日本での青銅器の発見例です。古代史の分野では「逸書」というものがあり、国家的な編纂事業のための公的で得難い史料が公権力の下、収集されていたのですが、不幸にも今に伝わらず、名称すら忘却の彼方へといってしまったものがたくさんあります。古代にあっては、新しい内容の豊かな史料が登場すると、その下地になった原史料は散逸の憂き目に会うことが多くなると言われています。多彩な史料が前提にあったからこそ、あの『日本書紀』の文学的な要素が盛られたものと思います。国家の機構を通じて保管された現用の最新の文書・記録が駆使された『続日本紀』以降の正史は、実録風の記録の正しさが伝わってくる反面、面白さに欠けると思ってしまうのも、気にかけなかった原史料のベースの違いといったものがあるからのようです。
 考古学には分布の空白といった怖い要素があります。空白が無いことを意味するものとして、証明できればいいのですが、実態は空白が存在に変わってくることを謙虚に受け止めているのです。本来は、なぜここまで出て、なぜここからは出ないかまでを説明できる考古学でないと信頼が置かれないのかもしれません。古代史も史料が先行史料群の取捨選択の上に成り立っているという重層構造の解明がより尖鋭的に行われる必要があります。

 考古学は今いかなる方向を向いているのか
 発掘調査も行われずに遺跡が破壊され煙滅するケースは低下し、事前調査が恒常化
して莫大な埋蔵文化財資料が全国各地に蓄積されてきました。しかし、ごく一部の調査成果が歴史を塗り替えている実態があり、数が物を言う筈の普遍性豊かな資料が表に出にくい状況が日常的となっています。最も手堅いものが地域の歴史素材として十分生かされていない現実があるのです。最大最古や稀少な遺構・遺物の類は、一時的に私たちの目や耳を楽しませ、ビジュアルなものとしてあたかも歴史の中央の花道に添え飾られますが、例数を著しく重ねてきたものは等閑に付される傾向や世相も感じます。多数の雑木から成る真理の森より、孤高の美しい高木のみに歴史を語らせているやに見えるのです。やはり、著名な遺跡の歴史的価値を高めている背景に、幾多の発掘成果の積み重ねがあり、その支えの上に立って新聞の紙面を飾る古墳や集落、寺院跡などの全国区発信があるのです。考古学は本来、個の歴史よりも集団の歴史像構築に大きな威力を発揮するのですが、新資料の発見などの報道では、どうしても歴史的にメジャーな人物や建物と関わる遺跡がクローズアップされるケースが多いようです。言い換えれば、単発的な遺構や遺物を誰もが驚く歴史の文脈に位置付ける快感に近いものですが、そのほとんどが精緻になった年代に依拠した議論に基づいている点が特徴と言えるでしょう。固有の年代や事跡を離れて、普遍的なものの中に新しい事実関係を見出す地味な仕事が本当はまだまだ必要なのです。
 また、諸科学との連携と協業がこの三十年程の間に驚くほど進みました。私の土器研究とも絡んだ話題を一つ提供しておくなら、胎土中の鉱物組成から産地同定などが行われていたのに加えて、最近は粒度組成の分析も進んで、三〇キロメートルぐらいの土器の移動現象以外に五キロメートル前後の隣接地域での土器の動きに一定の説明ができるように進歩しました。ただ、高性能のパソコンなどの普及により情報処理能力は格段と増しましたが、そこに時間と労力の多くを割くあまり、遺跡・遺物の現地・現物観察主義との乖離も起こっています。
図や統計処理の面で土器や石器などに詳しくなるのですが、遺跡踏査や現物を目の前にすると、途端に弱くなる方が時々おられます。土器や石器などの一点一点の観察時間は、考古学の変容とともに明らかに失われつつあるのです。土器観察会なども各分野で広く行われていましたが、既に盛んであったピークは過ぎ、対象によっては完全に下火になったものも見受けられます。考古学はやはりたくさんの物を見ないといけません。
 また、科学の進歩とはいえ、発達途上の段階であることを肝に銘ずる必要があります。保存科学の分野もその典型で、昨年ついに壁画の存在する石室の解体作業が行われた高松塚古墳の問題は、技術的にはまだまだ模索段階にあったことを国民的に謙虚に受け止めるべきで、私を含め国家的な機関や最高水準の対処に安堵しすぎた感がします。
 次に、近年重視されつつある方向性について触れます。先ず、人間活動と自然環境の関わりが強く求められるようになりました。一九七〇年代には、私も「環境考古学」という文字と出会ったことがありますが、今は動物考古学などもすこぶる盛んで、人と動物の出会い、とくに犬・豚・馬・牛のことなどが詳細にわかってきています。派生してトイレ考古学などもよく紹介されているところです。
 そして、東アジア的視野と列島の跛行性に対する実証が加わり、地域性形成の根幹的理由と文化的要素伝播の遅早の要因が遺跡・遺物に根ざして行われるようになりました。それから、この十年ほど、認知論の台頭が著しくなりましたし、ジェンダー考古学も着実に浸透しています。展示批判から現代感覚の風景画や性別分業、しぐさや服飾、竪穴住居内における座位までもが注意されるようになりました。現代人の男女の理解を単純に古代に可逆させることはできません。空間分析手法の向上も察知されます。遺跡・遺物の分布からの読み取りも大きく変化しています。交通手段の発達した現代的目線の距離感も修正されなければなりません。

日本古代史は今いかなる方向を向いているのか
 戦後民主主義下での歴史学の胎動から日本古代史研究も躍進します。階級対立と国家の成立をめぐる唯物史観論(マルクス主義歴史学)の展開を経て、研究の主題も順次多様化していきます。社会史・民衆史・女性史の隆盛と重視傾向が濃密となって現れ、その次には社会主義の崩壊と国民国家論が台頭、国家の枠組みの再検討などが始まり、古代史研究にも大きく影響します。社会の変化は新しい方法論や研究姿勢を生み出すものであり、現在は歴史の基本法則からの脱却を図る方向性を持っています。具体的には単線的な歴史像、必然性を求めた歴史認識、上昇線的で無間断な歴史の変化は過去のものとなり、複眼的な見方、地域ごとの歴史も断絶と変化を前提とした連続として再検討する弾力思考の段階に入ったと言えます。
 自明の対象の喪失と言えば、かなり難しい議論になりますが、国史の把握といったハードな枠組みは過去のものとなり、国土の相対的把握が若い研究者を中心に進められるようになりました。日本列島に住む日本人の立場ではなく、アジアの一員として客観的に流動性ある日本や日本史像を捉える。自然と多元的な枠組みが被さってくる。当然、地理的周縁や民族的周縁といった対象をまともに研究しなくてはいけない。九州南部の隼人、さらに南の南島人、東北・北海道の古代蝦夷の歴史的評価もウェイトが高くなっています。いわゆる夷狄研究を指しますが、戦前は先住者・異民族論が主体であり、古くは日本人起源とも絡むコロボックル論争とも関係します。戦後は東夷の小帝国を成立させんがための装置としての王民を中心に据えた化外の民が創出され、搾取の強化を支配構造として進めた律令国家像が浮き彫りにされてきます。現在は、東アジアの中での交流関係史が重視され、北方、南方の歴史として相対化されつつあります。田中聡さんのこの方面の研究が視角を切り拓きつつあります。七世紀後半の 初期律令国家の整備体系は国郡里制の助走として領域の確定と周縁の掌握への方向性をもちますが、対新羅など国際情勢の急速な変化と連動するものです。
 古代史の若手の研究者の偏在は痛感されます。明らかに大化前代の研究者が僅少なのです。とくに若い世代の人にみられる傾向と思われますが、実際、奈良時代以降の研究に比重が置かれています。弥生時代や古墳時代の論争に対峙しての議論が考古学の独壇場にならないためにも、層の厚い文献史学の研究者群が七世紀以前にも育っていって欲しいと願っています。八世紀初頭の律令国家確立期において、推古天皇以前は自らの日常の歴史と直接繋がらないといった感触が当時の識者にあったと言われています。『古事記』がそこで区切りをつけたことと因果がありそうですが、同じ古代史でもそのあたり以前の史料の扱いは当代の人々以上に難しい側面があるのでしょう。
 考古学との連携で言えば、七世紀前半以前の文字史料の絶対的不足があげられます。近年、出土数で圧倒される七世紀後半の天智・天武朝の木簡と比すれば、著しい格差があります。聖徳太子関係の文献史料や石碑文などは史料批判の必要なものも含まれています。まとめて、推古朝遺文と呼ばれているものです。習字の証拠を遡れば、六世紀前半の中国梁代の『千字文』があり、同じ六世紀のものとして『文選』六十巻があります。前者は漢字の初心者練習帳のようなもので、四言二五〇句の詩の形式になって学びやすいものです。後者は漢文名文集のようなものです。これらの書物の伝来時期について、『古事記』応神段や『日本書紀』応神十六年条の王仁の渡来による諸典籍伝授というのは全くの潤色であり、蓋然性が大きいのは、百済との交流による六世紀の流入とみる人が多いようです。習書関係の木簡は、このあたりを上限として増える可能性があります。

研究の統合化と新しい枠組みの必要性
 専門領域は考古学も古代史も本当に細密化してきました。私は末永雅雄先生から古文書のことや民俗、茶道、有職故実なども学びましたが、今はとくに細かい研究に入り込む人が多く、数多くの若い文学博士が誕生しています。その反面、眼前に広がる無数の歴史事象同士の連結作業、因果の解きほぐしなど、全体的な歴史叙述は不得手になってきているようで、垣根の外の研究を次々と渉猟し、持論を基軸として大所から歴史のうねりを掴み取る姿勢は敬遠されがちです。
 原始・古代の社会の復元は今最も関心の注がれているテーマですが、社会進化の複雑化の過程や度合いを追う研究は、考古学と古代史の間に方法論の違いや尺度の相違があります。考古学にとって即物的に住居跡や墓から知り得ることは多々あるのですが、親族組織や社会組織の解明になると、実のところ容易ではありません。居住集団や墓域でのグループとしての親密な集団が視覚的に状況証拠的に分かったとしても、それをいきなり家族とか氏族と呼ぶことができないわけでして、むしろ個々の階層的差違の方が物的資料により語りやすいという側面をもっています。階層格差は氏族同士にも氏族内にも発生するので、そこが厄介なわけです。階層化が進んだ首長制社会もこれを弥生時代に当てはめるのか、古墳時代と考えるかは研究者によって異なりますし、極端に言うと、弥生時代の初めから国家概念を持ってくる人もおれば、弥生社会を部族制段階とみる人もたくさんいて、まだまだスマートには説明できないのです。1-
 他方、古代史の方では、残存する戸籍が考察の基礎材料であり、戸籍実態説の立場からは氏族間の婚姻形態や氏族の構成組織、寄口や奴婢の存在などを根幹として社会構造の末端を復元する方向にあります。これを古墳時代以前に遡及させることは今や乱暴な議論でして、戸の人口格差などが考古学に言う単位集団の大小、流動性とどのように結び付くかは、残念ながら互いに検証不足であることを否めません。これからは歴史としての整合性の追求と矛盾点の共有をどうすれば解決できるか、学際的な検討が望まれているのです。
 新しい枠組みは学的連係以上に個人の努力も必要ですが、考古学と古代史の表裏一体的理解への推進は、私のような末端地方行政にいる者から地域実践への動きを開始させる必要があると考える昨今です。互いに研鑽を積みましょう(中・下に続く)。

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