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埴輪からみた河内と三島

つどい244号
大阪府教育委員会 小浜 成先生

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つどい244号 埴輪からみた河内と三島
―応神と継体をつなぐ点と線―                   
大阪府教育委員会 小浜 成 先生

 初めに
 継体大王の墓は、文献の記載どおり三島地域にあり、考古学の成果から六世紀前半に築造された今城塚古墳とみてほぼ間違いないと考えられている。私もこの立場に立っている。しかし、同じく文献に記されながら、応神と継体の関係については否定的な意見も多く、未だ多くの謎に包まれている。その謎をとく鍵は、三島地域に突如現れる五世紀の大型前方後円墳である太田茶臼山古墳とそれを取り巻く周辺の群集墳にあると考えている。近年、太田茶臼山古墳の南方で発掘された総持寺古墳群の調査成果から、応神の墓とされる誉田御廟山古墳(以下、応神陵古墳とする)と太田茶臼山古墳、今城塚古墳の関係について迫ってみたい。

一.三島地域の考古学の最新成果
 墳丘長二二六メートルの規模をもつ太田茶臼山古墳は、当時の摂津三島地域を統括した首長墳とみて間違いない。その被葬者を支えた集団の墓と考えられるのが、太田茶臼山古墳から南に約一・三キロメートル離れた位置にある総持寺古墳群である。
 総持寺古墳群では、計四十三基の古墳が見つかっており、そのほとんどが東西約一三〇メートル、南北約一一〇メートルの範囲に密集している。すべて墳丘や埋葬施設が削平され、周溝しか残っていない小規模墳で、円墳の一基を除くと残りはすべて方墳である。方墳は最大で一辺一四メートル最小では一辺四メートルしかないものもある。埋葬施設は、石材が全く出土していないことから、木棺直葬と推測される。
 四十三基のうち約七割弱の二十九基で埴輪が出土し、うち十八基には須恵器が共伴していた。小規模墳の群集墳であるにもかかわらず、須恵器と埴輪が共伴する頻度が高いことが大きな特徴である。さらに、須恵器は、TK73型式からTK208型式までの初期須恵器の範疇に含まれるものが大半で、より古い大庭寺段階の須恵器を伴う古墳もある。このように、総持寺古墳群は、現在大阪府下で見つかっている初期群集墳のなかでもかなり早い段階から形成が始まっていることが注意される。

二.総持寺古墳群の調査成果がもたらした
諸問題
 総持寺古墳群の円筒埴輪は、二条三段構成の小型円筒埴輪であり、外面調整はB種ヨコハケが導入されている。そのB種ヨコハケは、同一突帯間を二周あるいはそれ以
上めぐらすBb種ヨコハケに細分できる調整である。また、胎土分析によって大半が
新池埴輪窯産であることがわかった。それを裏付けるかのように、新池埴輪窯のなかで最初に築かれるa群窯で、ほぼ同一規格の二条三段の小型円筒埴輪が見つかっている。
 新池埴輪窯は、発掘調査から太田茶臼山古墳やその陪塚、今城塚古墳や昼神車塚古墳など、三島地域一帯の古墳に埴輪を供給していたことがわかっていたが、総持寺古墳群にも供給されていたのである。
 総持寺古墳群の円筒埴輪は、古い様相の器高の低いタイプから段構成を変えずに器高四二センチメートル程度の器高へと変化していく。太田茶臼山古墳のC号陪塚出土の円筒埴輪とは、器高が同じである。ただし、段構成は三条四段となる。さらに、太田茶臼山古墳の外堤埴輪列資料では、径がまったく異なるものの、突帯間隔がC号陪塚とほぼ同じである。
 つまり、総持寺古墳群の小型円筒埴輪の規格は、太田茶臼山古墳を頂点とした埴輪の法量・規格変化のなかに位置づけられる。つまり、階層差を明確にするという政治的意図のもと、器高を揃えた規格的な埴輪生産が、大田茶臼山古墳の被葬者を中心として新池埴輪窯で行われ、末端の小群集墳の供給まで管理されていたことが推測できるのである。
 この新池埴輪窯、太田茶臼山古墳、総持寺古墳群の関係は、円筒埴輪の外面調整のハケメパターン分析によって工具が同一であった可能性も指摘されていることから、かなり蓋然性が高い。
 これらの検討から、新池埴輪窯の操業開始、太田茶臼山古墳の築造、総持寺古墳群
の形成は、一連のもので、ほぼ同時期に起こった現象と推測できる。その時期とは暦年代でいつごろであろうか。
 
太田茶臼山古墳の年代および新池埴輪窯の操業開始時期については、出土須恵器片や考古地磁気年代測定から五世紀中頃と考えられていた。しかし、近年調査された宇治市街遺跡や平城宮下層遺跡で出土した大庭寺段階やTK73型式の須恵器の年代観として、共伴する木製の未製品の年輪年代測定から、それぞれ三八九年と四一二年の年代が導き出されている。この成果によれば、総持寺古墳群の形成開始時期および太田茶臼山古墳の築造時期、新池埴輪窯の操業時期も、五世紀初頭まで遡る可能性が出てきたことになる。もちろん初期須恵器の諸型式がもつ時間幅や製作から古墳への副葬時期をどう見積もるかという問題とも関わっており、年代測定事例の増加を待って今後も検討していく必要があることはいうまでもない。しかし、この新たな年代観は、次に検討を進める応神陵古墳との関連から首肯できるものと考える。

三.太田茶臼山古墳と応神陵古墳の関係性の検討
○円筒埴輪について
 さきにみたB種ヨコハケは、もともと古市古墳群の大型前方後円墳に樹立させる円筒埴輪の製作技法として成立し、Ba種からBd種へと時間的に発展したことが判明している。
 応神陵古墳の墳丘および外堤周辺で見つかっている円筒埴輪は、窖窯焼成で、Bb種ヨコハケやBc種ヨコハケが導入されている。それに対し、前代のBb種ヨコハケを用いた仲津山古墳の円筒埴輪は窖窯導入以前の野焼き焼成であり、次代の大王墳と目される仁徳陵古墳の円筒埴輪は、窖窯焼成であるもののBc種ヨコハケしか用いられていない。
 つまり、窖窯焼成でBb種ヨコハケの円筒埴輪は、当時の大王陵が連綿と造営された古市古墳群中において応神陵古墳で主体的に用いられたのである。このBb種ヨコハケが新池埴輪窯をはじめ総持寺古墳群や太田茶臼山古墳などにみられるということは、埴輪生産盛行期の南河内から摂津三島の地へ技術伝達されたか、あるいは技術習得した工人の一部が移動し生産を開始したことを示している。
 さらに、総持寺古墳群では最後までBb種ヨコハケが用いられており、応神陵古墳の外堤樹立時に完成していたBc種ヨコハケは用いられていない。三島地域へBb種ヨコハケは伝えられたものの、Bc種ヨコハケは伝わらなかったのである。つまり、総持寺古墳群の円筒埴輪の製作開始時期は、応神陵古墳築造開始以降で、かつ墳丘築造時にまで絞り込むことが可能となる。
 以上の円筒埴輪の分析から、応神陵古墳と総持寺古墳群、ひいては太田茶臼山古墳との強い関連性が認められる。

○葬送儀礼祭式について
 太田茶臼山古墳では、北東部の外堤内法裾および付近の周濠内から器財、甲冑形、馬形、水鳥(鵜)形などの形象埴輪が出土している。出土状況から、本来外堤上に立て並べられていたと思われる。
 堤上に埴輪を樹立する行為は、六世紀前半築造の今城塚古墳での発見により、畿内の大王墓を中心に執り行われていたことが判明したが、その初現については不明な点が多い。これは、王墓である畿内の主要な大型前方後円墳が天皇陵に比定され、調査が十分に行われていないことも原因である。
しかし、古市・百舌鳥古墳群の天皇陵級の古墳およびその陪塚の調査を丹念に見ていけば、堤上の埴輪樹立行為が五世紀代の河内において成立したことはほぼ間違いない。
 
たとえば、仁徳陵古墳では、外濠内から馬、鹿、犬、巫女などの埴輪が見つかっており、おそらく堤上に樹立されていたこと、また造り出しからは須恵器の大カメが出土していることから、造り出し上で飲食物供献儀礼が行われていたと推測される。ちなみに、飲食物供献儀礼とは、近年増えてきた造り出し上の調査で、家形埴輪や笊形土器、土師器やミニチュア土器、食べ物を象った土製品などが出土することから明確になった儀礼行為である。
 また、応神陵古墳と同じ円筒埴輪が用いられ、陪塚と考えられる栗塚古墳で人物や馬形の埴輪片が出土していることなどから、応神陵古墳の堤上に形象埴輪や人物埴輪が樹立された可能はきわめて高い。応神陵古墳の造り出し周辺では、古くに魚形の土製品が採集されていることから、飲食物供献儀礼の存在も指摘できる。さらに、最近では応神陵古墳出土とされる水鳥形埴輪十数体が、墳丘東側の内濠内から出土したものであることがわかり、奈良県巣山古墳や古市古墳群の津堂城山古墳と同様、(出)島状施設が存在していた可能性さえ出てきた。
 このように見てくると、墳頂での埴輪樹立以外に、造り出しや(出)島状施設、堤上のすべての場所で埴輪を樹立させる行為や儀礼を行っていたのは、応神陵古墳が初源であるとみることができる。
 とすれば、今までの検討から応神陵古墳と近接する時期に比定できる太田茶臼山古墳は、円筒埴輪の製作技法の導入のほか、葬送儀礼祭式についても大王陵の墓域以外としてはいち早く伝達・配布されていることとなり、太田茶臼山古墳と応神陵古墳の被葬者間に強い結びつきがあったことを示しているといえるだろう。
 応神陵古墳は、墳丘長四二五メートルを測る古市古墳群中最大の前方後円墳であり、その被葬者は河内政権ともいわれる当時の巨大権力をもった大王とみて間違いないことから、太田茶臼山古墳の被葬者は当然のことながら、当時の大王と深い関係があったのである。

四.今城塚古墳と応神陵古墳の関係性の検討
 今城塚古墳の発掘調査については、周知のように墳丘東側の内堤上で発見された形象埴輪樹立場が注目されている。しかし、堤上の埴輪樹立だけでなく、円筒埴輪の様相にも着目すべき点がある。
 今城塚古墳の円筒埴輪は、堺市の日置荘埴輪窯で見つかった新しいタイプの埴輪の系譜を引くものを含んでいる。この日置荘型円筒埴輪と呼ばれる円筒埴輪は不明な点が多いものの、六世紀代に入ってから、四~五世紀代の大型円筒埴輪を復古させた様相をもつと理解されているものである。今城塚古墳での日置荘型の大型円筒埴輪の出現は、前代までの河内の王墓の円筒埴輪がすでに小・中型化していたことからすれば異質である。
また、円筒埴輪の外面調整についても、詳細はわからないが、二次調整を省略した一次調整のタテハケのみのものに混じって、二次調整のB種ヨコハケも認められるようである。この現象も、前代の大王墓級の古墳の円筒埴輪がすでに二次調整のヨコハケを省略し、一次調整のタテハケのみであったことからすれば、これまた異質である。
 このように、今城塚古墳の円筒埴輪で起
こった大型化やヨコハケの採用は、古市古墳群の形成初期、つまり応神陵古墳においてほぼ確立された規格的かつ大型の円筒埴輪生産を意識したものとみることができる。
 注目を集めている堤上の埴輪群の樹立行
為については、大王墓における盛大な葬送儀礼祭式の遂行として認められる。しかし、この行為も、前代以前の王墓級の古墳の堤周辺で形象埴輪の出土例や採集例が少ないことから、すでに縮小化したか、断絶していた可能性が高い。とすれば、さきに検討し応神陵古墳で確立したと考えられる堤上での葬送儀礼祭式を、意図的かつ盛大に復活させたものと捉えることができる。

五.応神と継体をつなぐ点と線
 いままでも、太田茶臼山古墳と今城塚古墳の関係については、三島地域で突出した両古墳の存在とそこに供給する新池埴輪窯の存在などから特別視する見解があり、応神陵古墳と太田茶臼山古墳の関係については墳形プランの共通性から言及されていた。
 また、それは摂津三島地域が内陸と結ぶ水陸交通の要衝で対外交渉の際にも重要な地域であると見て、倭王権との特別な関係を読み取ることでもあった。
 そして、今回検討を加えたように、太田茶臼山古墳と今城塚古墳、そして応神陵古墳の三古墳(の被葬者)に関係性がなければ理解できない現象が少なからずあることを埴輪の視点から述べた。
 文献史学上では、『古事記』や『日本書紀』に記された応神天皇と継体天皇の系譜について信憑性が問われているが、考古資料を検討材料にしてみれば、応神陵古墳から太田茶臼山古墳、そして今城塚古墳の被葬者へとつながる糸があるように思われる。

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