磐井の乱
つどい243号
堺女子短期大学 准教授 水谷千秋先生
以下検索用テキスト文
漢字変換の制限により文字化けする場合があります。
磐 井 の 乱
堺女子短期大学 准教授 水谷 千秋 先生
一
昨年(二〇〇七年)は、継体天皇即位一五〇〇年ということで、ゆかりのある福井県や滋賀県高島市、大阪府枚方市などで、シンポジウムや講演会などが活発に行われました。この機会に初めてこの天皇の存在を知ったという方もおられたようで、多くの市民の皆さんに古代史に関心を持っていただくという意味でも、大いに意義があったのではないかと思っています。継体天皇を研究テーマとして勉強してきた一人として、私にとってもこの反響は大変うれしいことでした。本会でもこの一年、継体天皇をテーマに選ばれ、多くの先生方を招いて勉強されてきました。今日、私は継体朝の後半に起きました磐井の乱についてお話し
ようと思います。
二
『日本書紀』によると、継体天皇二十一年に筑紫国造磐井が新羅と内応して大和朝廷に対し反乱を起こしたとある。朝廷は物部麁鹿火に五万の兵を与え、二十二年冬十一月に筑紫の御井郡で交戦してこれを降し、磐井を斬ったと記されている。かつては、この乱を大陸出兵にたびたび動員された九州の豪族たちの不満が爆発したものであるとする説が、有力とされてきた。
その後、吉田晶氏がこの乱を「すでに成立していた国家の中央に対する地方勢力の反乱ではなく、畿内と九州のそれぞれに部族同盟段階にあった政治勢力による国家形成をめざす戦争であった。」と捉える見解を示された。継体朝の時点では、まだ大和政権も「国家」段階にまで到達しておらず、規模こそ大きいものの本質的には九州の磐井と変わらない「部族同盟」段階だったのであり、この乱の本質は国家形成を志向する大和と九州のふたつの部族同盟が対等な立場で戦った戦争である、とする見方である。吉田説は、それまでの磐井の乱観に見直しを迫る画期的な見解であった。以後の磐井の乱研究は、賛否を含め吉田説をめぐって展開していると言っても過言ではないだろう。
磐井の乱に関する文献史料は大きく三種類ある。①『古事記』継体天皇段、②『日本書紀』継体天皇条、③『釈日本紀』所引「筑後国風土記」逸文である。このうちまず『古事記』をとりあげよう。
『古事記』継体天皇段
此の御世、竺紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無し。故に物部荒甲之大連、大伴之金村連の二人して、石井を殺せり。
「仁賢記」以降の『古事記』は、天皇の名前や宮の所在、后妃・皇子・皇女の名前、御陵の所在、各天皇の即位事情など、「帝紀」(歴代天皇の系譜)に基づく系譜的な記事しか記されず、物語的・伝承的な内容は姿を消してしまう。そのような中で、磐井の乱だけはきわめて簡潔な内容ではあるものの、その顛末を記しているのは異例の扱いということができる。それは、磐井の乱に関する記述が、『古事記』の原史料となった「帝紀」のなかに含まれていたからに他ならない。仏教伝来や蘇我・物部戦争、任那滅亡など、この前後には他にも重要な事件は多々ある。そのなかで磐井の乱のみが「帝紀」に記されているのは、この乱の鎮圧が継体朝の王権の存立に大きな役割を果たしたからであろう。
ただ『古事記』の記事はあまりに簡潔で、反乱の実態はほとんど明らかではない。磐井の罪状も「天皇の命に従わずして、多く礼無し。」とあるだけで、具体的にどういった命令に従わなかったのか、どのような無礼をはたらいたのかについては何ら記されていない。この所伝からすれば、磐井が反乱を企図して挙兵したというよりも、むしろ大和政権の側が先に磐井を攻撃したようにも読み取れる。また当時の二大実力者であり軍事氏族である物部麁鹿火大連・大伴金村大連が鎮圧軍として派遣されているのはこの乱の大きさを物語ると共に、中央豪族が総力を結集して事に当たったことを示唆していよう。『古事記』の所伝はきわめて簡略であるが、その分潤色が乏しく、乱の経緯を簡潔に記録しているのかもしれない。
これに対し、『日本書紀』の所伝は『古事記』と比べると量は豊富だが、信憑性には疑問のもたれる記事が多い。まず、新羅と内応した磐井が近江毛野臣の任那派遣軍の渡海を妨害したのが乱の発端としているが、『古事記』や次に見る筑後国「風土記」逸文にはそのような内容は一切ない。また磐井と戦ったのは物部麁鹿火大連率いる官軍のみで、任那派兵を妨害され足止めを食らった近江毛野臣の六万の軍勢が、この間どこで何をしていたのか言及がないのも不審である。新羅と内応し賄賂を受けていたというのも確証のない話で、直接新羅から援軍が差し向けられたわけでもないから、噂の域を出ない。全体的に『日本書紀』の当該記事には、唐代の類書『藝文類聚』から地名や人名だけを日本のものに書き換え、修飾された文章が多いことが指摘されている(小島憲之『上代日本文学と中国文学』)。『日本書紀』から磐井の乱の史実を追究するには十分な慎重さが求められよう。
ただそれでも、継体が大伴金村や物部麁鹿火ら中央豪族と合議を開いて対応を協議し、物部麁鹿火の派遣を決定したとあること、戦闘が磐井の本拠地ともいうべき筑紫国御井郡で行われたことなどは、重要な所伝として尊重すべきであろう。
もうひとつ重要な史料が、「筑後国風土記」逸文(『釈日本紀』所引)である。そこには、筑後国「上妻県の南二里」にある磐
井の墳墓について詳しく記述されている。この墓には「東北の角」に「別区」があり、「石人と石盾と各六十枚」が四面に行を成して並べられているという。これらは九州 各地の古墳の墳丘上に林立する石人石馬のことに違いない。現在ではこの古墳は、福岡県八女市にある全長一三八メートルの六世紀前半の前方後円墳、岩戸山古墳であろうといわれている。九州北部・中部では最大の前方後円墳で、最も多くの石人石馬を備えることでも知られている。
「風土記」は、「筑紫君磐井、豪強暴逆にして皇風にしたがわず。生けりし時、あらかじめこの墓を造る。」とあるが、『古事記』同様、反乱の実態、原因については明確な記述がない。また、「官軍」の攻撃が突然で、磐井には予期せぬ攻撃であったともあり、磐井は独りで豊前に逃亡しそこで亡くなったと記されている。
ここまで『古事記』、『日本書紀』、「筑後国風土記」逸文と、三種の文献史料を検討してきた。そこから推定できるのは以下のことであろう。第一に、磐井の乱の鎮圧は、「帝紀」に記されるほど重要な事件として記憶され、磐井を鎮圧することによって、継体の政権基盤が確立したと考えられること。第二に、戦闘は「官軍」の攻撃によって始まったのであって、磐井が積極的に挙兵して反乱を起こしたわけではないこと。第三に、継体が大臣・大連らと合議して物部麁鹿火大連を「官軍」の将軍に派遣し(『古事記』では大伴金村大臣も派遣)、中央豪族が総力を挙げて磐井と対決したとみられることである。
磐井の乱に関しては考古学からのアプローチもさかんである。近年では柳沢一男氏が、五~六世紀の有明海沿岸地方の古墳にいくつかの共通した特徴がみられることから、磐井を盟主とする「有明首長連合」ともいうべき政治連合がこの地域に存在していたと推測している。その共通する特徴
とは、①阿蘇溶結凝灰岩を素材とする横口式家形石棺、②墳丘上に立てられた石人石
馬、③筑肥型の特異な横穴式石室、である。その頂点に位置する古墳が岩戸山古墳であるという。この見解によれば、北部・中部九州勢力(「有明首長連合」)が形成され、中央の政権から自立した動きをみせ始める
のは、磐井の乱が勃発する半世紀ほども以前の五世紀中ごろからであって、決して継体朝になってにわかに反乱を起こしたわけ
ではないことがわかる。
三
『日本書紀』は、磐井の乱の勃発を、継体が大和国磐余玉穂宮に遷都した翌年の継体二十一年の出来事としている。このあたりの紀年がどこまで正確かは推測が難しいけれども、継体が大和国に定着した数年以内に、時を置かず磐井討伐に乗り出したことまでは認めてもいいだろう。
彼は樟葉宮で即位したあと、継体六年に筒城宮、十二年に弟国に遷都し、二十年に大和国磐余玉穂宮に入ったとある。摂津・山背の淀川、木津川流域を転々とし、なかなか大和盆地に入らなかったのは、あえて入らなかったのか、入りたくとも入れなかったのか、議論が分かれるところである。私は両方の側面があったと思うけれども、やはり大和盆地内に反継体勢力があって入れなかったという面は否定できないと考えている。反対勢力の中核は、葛城氏とその系統の大和盆地西南部の勢力であったろう。長い対立の末にこの勢力が衰退したあとへ、満を持して継体は大和盆地に入ったものと私はみている。長く内紛を続けてきた中央豪族が、継体の下でようやく再結集したのである。
彼は大和盆地定着を実現すると、時を置かず磐井討伐に乗り出した。磐井を盟主とする北部・中部九州勢力(「有明首長連合」)の形成と自立化の動きは、以前から中央でも問題視していたに違いない。しかし雄略の没後、勢力が弱体化して王位継承争いが絶えず、さらには継体をめぐって内部分裂していた大和政権では、磐井討伐軍を派遣することも困難であったろう。しかし中央豪族の一本化がようやく実現したことで、物部氏・大伴氏という二大軍事氏族の派遣が可能になった。磐井との対決は大和政権にとって積年の課題であり、継体の下で再結集した新政権にとって、その真価が問われる戦いだったに違いない。大伴・物部を始め、中央豪族はその勢力を結集して戦いに臨んだ。結果的に勝利を収めたが、これによって継体朝の王権は初めてその存在を確立できたのだのであろう。だからこそ、その勝利が「帝紀」に記されているのである。そしてその結果、地方豪族を排除した、大王と中央豪族による政権への道筋が明らかになっていくのである。