枚岡神社・石切剱箭神社参拝
つどい242号 会員阪口孝男
⑤画面をクリックすると拡大します
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
以下検索用テキスト
文漢字変換の制限により文字化けする場合があります。
・見学コース 枚岡神社→昼食〔グリーンガーデ ひらおか〕→千手寺→石切剱箭神社 →現地解散 平成二十年一月二十六日、近鉄奈良線・鶴橋駅で集合した三十八名は、十時二十分発西大寺行き準急に乗り込み、同三十六分枚岡駅に到着する。 この辺りの現在の地名は、東大阪市出雲井というが、古代は河内国河内郡豊浦郷と呼ばれた処である。 ここから南の方の近鉄瓢箪山駅より北へ枚岡駅、額田駅、石切駅にかけての、生駒山西麓地帯と、この近鉄線の西の方を南北に平行して走る東高野街道〔国道旧一七〇号線〕を挟んだ東西の地域には、日下貝塚を始めとする旧石器時代から室町時代の複合遺跡や古墳群、古代寺院跡など注目すべき遺跡が数多くある。 枚岡駅の改札を出て線路下の通路を潜り、駅の東側に回ると直ぐ左手の店の前にある【当国一ノ宮 元春日平岡大社 左なら】と刻まれた、大きな石碑に注目する。 元春日の春日と云えば、奈良の春日大社の事であろうし、春日大社と云えば、古代豪族中臣氏の後裔である藤原氏の氏神である。 そう云えば、古代豪族の勢力分布図では、中臣氏の蟠居した土地は、北河内から中河内にかけての生駒山寄りの処であり、正に今我々のいる、この辺りであるから中臣系氏族と枚岡神社との関わりは、当然察せられるし、平岡の名も『和名抄』には河内国河内郡豊浦郷に隣接して、河内国讃良郡枚岡郷があり、また、『新撰姓氏録』の河内国神別の中臣系氏族に平岡連の名が見えるので、平岡連の斎く社でもあったのかな、と一応は合点するが、それでは元春日とは、如何なることであろうか。 元々は春日大社とでも名乗っていたのか、それとも、単に、そう呼ばれていただけなのか、この大きな石碑に深く彫り込まれた、元春日平岡大社の、その由来を、あれこれ考えながら、駅から注連(しめ)縄(なわ)を張り巡らせた階段を上って道に出ると、鳥居があり枚岡神社の境内に入る。 どうやら、ここからが参道となっている様だが、付近の様子からみて、本来の参道はもっと西の方へ下がった、恐らく旧東高野街道辺りまで延びていたのではあるまいか? と思案しつつ神社に向かって広い参道を進むと、次の様な枚岡神社の由緒板が建っている。 枚岡神社〔河内国一ノ宮・旧官幣大社〕東大阪市出雲井六の十七 ご祭神、 第一殿 天(あめの)児(こ)屋(や)根(ねの)命(みこと) 第二殿 比(ひ)売(め)御(み)神(かみ) 第三殿 武(たけ)甕(みか)槌(づちの)命(みこと) 第四殿 経(ふ)津(つ)主(ぬしの)命(みこと) 主神の天児屋根命は、記紀神話の天(あめの)岩屋(いわ)戸(と)や天孫降臨の段に登場する神で中臣氏の祖先神であり、中臣氏といえば、天津神と皇孫の間を執り持つ神祇奉斎の一族で、後 世には権勢を誇った藤原氏が出るのは良く知られた処である。 比売御神は天児屋根命の后神である。 武甕槌命は、国譲りの神話に登場する神秘的な武神で、『古事記』によれば、出雲の国の稲佐の浜で十拳の剣の柄を波頭に突き立て剣先に足を組んで坐り、大国主命に国譲りを迫った、あの神である。建(たけ)布(ふ)都(つの)神(かみ)・豊(とよ)布(ふ)都(つの)神(かみ)とも呼ばれている。 因みに鹿島神宮・春日大社の祭神として有名である。 経(ふ)津(つ)主(ぬし)命と呼ばれる神名は、刀剣で物がプッツリと切られる様を表す「フツ」と神である事を表す「ヌシ」とからなり、この神が刀剣の威力を象徴する神であると云われている。一説によると武甕槌命と同一神でないかとも。共に藤原氏の氏神として春日大社にも祀られている。 さて、境内の由緒書によると、この社は神武東征の砌、天(あめの)種(たね)子(この)命(みこと)が、勅命を奉じて、現在地の東方山上の霊地、神津嶽に天児屋根命・比売御神の二柱の神霊を奉祀したのが起源とされ、その後、西暦六五〇年〔孝徳天皇白雉元年〕に平岡連等が、現在地に神殿を造営、山上より二柱の神霊を奉遷し、次いで西暦七七八年〔光仁天皇宝亀九年〕に武甕槌命と経津主命を香取・鹿島から勧請奉斎して四神を祀ったのが枚岡神社の始まりとある。 尚、枚岡神社の略記によれば、【春日大社の天児屋根命と比売御神は、称徳天皇神護 景雲二年〔西暦七六八年〕に、枚岡神社から春日大社に分祀された為に、当社を元春日と呼び習わして来た】と記されているが、これだけでは枚岡神社が「元春日と呼ばれてきた」所以を、誰にも理解させることが出来ないのではないか。 駅前の石碑名の様に、枚岡の上に敢えて、中臣宗家・藤原氏の氏神である春日大社の春日に元を加えて、元春日枚岡大社と云う呼び方をさせたのは、当時の世相に元春日の名を付すことが、神社としてのステータスシンボルの様な意味合いがあったのであろうか。それとも他に隠された、いわくがあるのではなかろうか。 境内を更に進むと、前方に左右に石の剣を取り付けた石柱と、普段見慣れない変わった注連縄を張ってある石柱を越え、その先の急な階段を登りきると神社の拝殿である。 随分と前置きが長くなったが、我々一行は枚岡神社に着くと直ぐに鶏鳴殿に案内され、手荷物を置いてから全員、本殿前の拝殿に通される。 着座してから辺りの様子を窺うに、鬱蒼とした樹木の中に平岡造りと呼ばれる、屋根は檜皮葺きで千木・鰹木を載せた朱塗りの本殿が四殿相並んで鎮座する、その佇まいは、辺りの社叢の静寂さと何かしら瑞々しい雰囲気とが良く調和し、流石に神の坐ます処と感じ入る。 ここの地を出雲井というのは、恐らく地下に水脈がある処から付けた、名であろうし本殿は、その真上に鎮座していると云う。 本殿脇の池は、今でもその水脈から水が湧いていると云うし、その池の傍には出雲井と云う井戸があり建屋で囲われている。この神社を包む鬱蒼として瑞々しい社叢は、この出雲井に守られているのであろう。 やがて神職の祝詞奏上が行われ、一同御祓いを受けた後、石塚副会長が代表して神前に玉串を奉納され、全員二礼二拍手一礼により拝礼を行う。続いて巫女による難波〔なにわ〕神楽舞も行われて、厳かに新年の参拝を済ませた。 本殿参拝の後、神酒を戴いて鶏鳴殿に戻り、奈須光興宮司から講話を聞く。 枚岡神社の由来や同社の年中行事について、特に十月の秋郷祭り〔ふとん太鼓祭り〕と十二月の注連(しめ)縄(なわ)掛(がけ)神(しん)事(じ)について説明を受けるが、有名な粥(かゆ)占(うらない)神(しん)事(じ)には話が及ばなかった。 ただ、宮司の話の中で、摂河泉〔摂津・河内・和泉〕の神社では枚岡神社が最も格式の高い神社である証左として、次の様な事例を出して強調されたのが興味深かった。 その話と云うのは、こういう事である。 昨年、大阪で世界陸上競技が行われた際の今上陛下の行幸に当たり、枚岡神社、大鳥神社、住吉神社、生国魂神社、水無瀬神社、坐摩(いかすり)神社、四条畷神社、阿倍野神社、護国神社の九社に幣饌料〔お供え〕が下賜されたそうである。 尤も宮司の話では、各地に行幸、行啓があった時には、その地の旧官幣・国幣神社に対し、幣饌料が下賜されるのは慣例となっているそうであるが・・・・。 昨年の幣饌料の伝達は、九社の宮司が大阪中の島のリーガロイヤルホテルに呼ばれて行われたそうであるが、その伝達式に於いて、幣饌料を下賜される順番が、他の有名な住吉神社や大鳥神社に先んじて枚岡神社が、一番だったのだ、また、枚岡神社はいつも一番なのだ、と誇らしげに言うのである。 これは、摂河泉の神社で、枚岡神社だけが貞観元年〔八五九年〕に正一位に叙せられ、「延喜式」には名神大社に列せられて、然も、国の一の宮として古くから尊崇されて来た神階・神格の高い神社だと云う、古代の序列やしきたりが現在にも尚、生き続けているという事なのだろうか。 ともあれ、晴れの式場で面目を施した宮司の得意顔が目に浮かぶようである。 尚、蛇足ながら一の宮というのは、一国の中の主要な神社に等級をつけて最上位にあるものを一の宮といい、発生の由来については諸説がある。通常、古代の制度では国司が神拝といって毎年、国内の神位が高い官社を巡拝するのが例であったので、後に主要な神社を選んで参拝する為に、この名称をつけられたとも云われている。 終わりに枚岡神社に関し、二つのことを付記しておきたい。 一つは、枚岡神社の祭典行事の内、一月に非公開で行われる粥占神事は大阪府の無形民俗文化財に、前述の十二月の注連縄掛神事は、東大阪市の無形民俗文化財に指定されている事。 二つ目は、枚岡神社の社叢〔枚岡梅林を含む〕が、良好な香りとその源となる自然や文化が保全されているとして、平成十三年に環境省で制定された【日本かおり百選】に指定されている事である。 さて一行は、拝殿前で記念撮影を行った後、十二時頃に枚岡神社を辞し、次の昼食場所の〔グリーンガーデンひらおか〕まで 凡そ十五分ほど歩いて向かう。 〔グリーンガーデンひらおか〕での昼食では、新年の事でもあり、最年長の山本善 輔先生のご発声で、豊中歴史同好会の更なる発展と会員各位の健康を祈念して乾杯する。 続いて参加者の自己紹介があり、和やかな裡に昼食会を終え、次の千手寺に向かう。 千手寺へは、〔グリーンガーデンひらおか〕の前の坂を下り、近鉄額田駅の付近から線路の高架下を潜り石切剱箭神社へ通じる参道商店街を行く。 千手寺は、その商店街を一五〇メートルほど下った途中の左手にある。 千手寺 寺伝によれば、役小角の創建で、恵日山光堂 千手寺と称し、平安時代に空海もここで修行したと云う。また、在原業平が中興したと伝えられ、境内に「業平塔」と呼ばれる南北朝時代の花崗岩製の五輪塔がある。 また、本堂の裏手に古墳時代後期の横穴式石室がある。境内の案内板によると、弁天塚古墳とあり、神並古墳群中の一支群である千手寺古墳群の唯一の遺構とある。 全長九メートルを超える規模の大きい片袖式の石室で、玄室内には数体の追葬が認められ、羨道の閉塞部には「ことどわたし」を示すかと思われる遺物が破砕された形で見つかった、と書かれている。 今日もこの参道は、石切剱箭神社へお参 りする人々の往来が激しい。我々一行もその混雑で纏まって歩けず、千手寺の辺りで離れ離れとなり先に行く人を見失ってしまう。 ところで、この石切神社の参道両側には、占い店が数多く目立つ。しかも、占い師には女性が多いのである。不思議に思って、とある店に入りその理由を尋ねると、女占い師は、店の数はハッキリと判らないが七〇から八〇軒ぐらいではないか?また、占い店が石切に多く集まった理由は良く判らないが、四、五年前頃から増えて来ている様だ、との事である。 やはり、経済的に豊かになったものの、先行きに見えない不安を感じる人々が多くなった時世を映しているのかもしれない。 最後に何故、石切に店を?の問いに、その女占い師、悠然と「神のお告げ」と、のたまわった。 その矢先、若い女性の二人連れが入って来たので、慌てて店を後にする。 後で知ったことであるが、石切剱箭神社の栞によると、御祭神の可美真手命〔うましまじのみこと〕が、十種の神宝による呪(まじな)いの神法で多くの人々を助けた、と書いてあるので、この伝説が後世この地に女占い師を集めたのかも知れない。 千手寺を出てから西の方角へ六〇〇メートルほど商店街の密集した参道を進むと、石切剱箭神社の本殿前の広い境内に出る。 石切剱箭神社は、腫物【関西では〔でんぼ〕】など化膿に効験あらたかな神様として、江戸時代から上下遠近を問わず参詣者が多く現在も、お百度を踏む人々の列が絶えない。 現在、神社の氏地は石切・日下の各地区に跨り、氏子世帯は約六千五百を数えると云うが、そのほか崇拝者組織として石切講が大阪を中心として早くから営まれ、現在は戦時中に疎開した信徒によって全国に約百講社〔一講社当たり五〇~三〇〇人〕と膨れ上がり、ブラジルのサンパウロにも講社があると云われる。 石切剱箭神社には、本社と上之宮があり、上之宮は近鉄石切駅から東の山手の方へ五〇〇メートルほど行った処にある。 上之宮の背後に通称〔宮山〕と呼ばれる山腹の平坦地があり、石切剱箭神社の飛地境内地となっている。 そこからは現在も土器などが多数出土すると云う。社伝によれば、天神から十種の瑞宝を賜り、天の磐船に乗って河内の哮(たけるが)峰(みね)に降臨したニギハヤヒとウマシマジを祀ったのが、この宮山の地であると云う。 哮峰は一般に生駒山のことと云われているが、この宮山は生駒山を祖神降臨の地として祭祀が行われた石切剱箭神社創祀の場所と推定されている。 石切剱箭神社〔延喜式 式内社〕 ~東大阪市東石切町一の一の一~ 石切剱箭神社のご祭神は、物部氏の祖神、天(あま)照(てる)国(くに)照彦(てるひこ)火明櫛玉饒速(ほあかりくしたまにぎはやひのみこと)日(ひ)命(いのち)とその子の宇摩(うま)志摩(しま)治(じの)尊(みこと)(可美真手命)で、現在は本社・上之宮共に、この二神を祀るが、嘗て上之宮では饒速日命のみを祀っていたという。 ニギハヤヒについては、『先代旧辞本紀の巻 第三』には 天(あま)照(てらす)国(くに)照彦(てらすひこ)天火明櫛玉饒速(あまのほあかるくしたまにぎはやひのみこと)日(ひ)尊(みこと) と記されており、天照大神の御子、正哉吾勝々速(まさやあかつかつはや)日天押(ひあまのおし)穂(ほ)耳(みみの)尊(みこと)の子としている。 記紀神話では、神武天皇〔神倭伊波礼毘(かむやまといわれび)古(こ)命(みこと)〕の東征の物語には、長脛彦の妹と結ばれて、この地に勢力を張っていた饒(に)芸(ぎ)速(はや)日(ひ)命が、最後に恭順の意を示した事で、神武天皇の大和平定が成ったとある。 処で、石(いし)切(きり)剱(つるぎ)箭(や)と云う名は、石でも切れる鋭利な剣と箭〔矢〕を意味し、軍事などを司った物部氏一族を祀る社に相応しい。神社の楼門〔絵馬殿〕の屋根の上に、それを表すかの様に大きい金色の剣が立てられている。 神宝には、古墳時代の三角縁唐草文帯二神二獣鏡、獣文帯四神四獣鏡や環頭太刀柄頭などがある。普段は、これらは拝観出来ないが、春秋の大祭には一般公開される。 また、境内の北寄りに法通寺跡がある。法通寺は物部氏一族の穂積氏の氏寺と考えられており、過去の調査で建物跡二カ所と回廊跡が確認され、一部は境内の穂積殿の下に原状のまま保存されているとの事である。 尚、石切剱箭神社には、神武天皇の〔蹴上げ石〕と称する霊石をご神体としている事、社前に幹廻り七・五メートル、高さ二〇メートルの大樟の神木が天然記念物である、事を付け加えておく。 千手寺からの参道の混雑で、石切剱箭神社での参拝は一斉に行うことが出来ず、到着毎に各人銘々が行った後、本殿前広場に集合し午後二時半過ぎ、平成二十年度最初の見学会を無事に終了し、石切剱箭神社現地で解散となった。