河内の古道(上遠野浩一先生)

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河内の古道
上遠野浩一先生
大阪府立淀川工科高等学校 教諭・『古代史の海』編集長
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10/8(土)推古天皇と蘇我馬子と隼人馬(平林章仁先生)

10月8日(土)
会場 阪急蛍池駅前ルシオーレ4階 豊中市蛍池公民館第2集会場
13:00  受付開始 諸連絡
      ミニ講座 古代の大阪シリーズ
       第17回 「なのわの地形と成り立ち」
       『難波の四郡と住吉津』
       担当 阪口孝男(会員)

14:00 「推古天皇と蘇我馬子と隼人馬」
      龍谷大学教授 平林章仁先生

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高尾山古墳出土鏡とその意義(西川寿勝先生)

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6世紀の北九州とヤマト政権(宇野慎敏先生)

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馬見丘陵公園と佐味田宝塚古墳を訪ねる

2016年5月の現地見学は、奈良県馬見古墳群の中央部に位置する馬見丘陵公園の古墳群と佐味田宝塚古墳を見学します。あわせて、河合町文化財展示室と二ノ谷遺跡も訪れる予定です。解説はいつものように、中司先生にお願いしております。

なお、巣山古墳・牧野古墳は前回見学から日が経っていないので、今回は割愛します(馬見古墳群南群とあわせ将来見学を計画いたします)。
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1.日時 2016年(平成28年)5月28日(土)

2.集合場所、時間
第1集合場所  阪急梅田駅3階改札内 神戸線側売店前 【9時集合】
第2集合場所 近鉄田原本線池部駅改札前    【10時21分集合】
      参加者確認は河合町中央公民館ロビーで行います。

3.乗車予定
大阪駅9時14分発大和路快速加茂行き→9時55分JR王寺駅着
  (次発の大和路快速でも乗継可能ですが、安全のため一本前の電車としました)
近鉄新王寺駅10時14分発 田原本線西田原本行き→10時21分池部駅着
  (運賃 大阪~池部760円)

4.ルート
近鉄池部駅→河合町文化財展示室→馬見二ノ谷遺跡→池上古墳(遠望)→公園内で昼食→乙女山古墳→一本松古墳・倉塚古墳→ナガレ山古墳→佐味田宝塚古墳
→16時30分頃葛城台バス停 (五位堂または王寺行きのバスに乗車)

5.費用
レジュメ代を含め、会員は100円、会員外は600円。交通費は各自ご負担ください。なお、河合町文化財展示室は無料です。

6.昼食
馬見丘陵公園内で昼食予定。

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遺跡からみた雄略朝から継体朝のヤマト(坂靖先生 )

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奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
総括学芸員(講演時)現学芸課長 坂靖先生
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竜山・宝殿山遺跡を訪ねる

「石の宝殿(ほうでん)及び竜山(たつやま)石採石遺跡」ならびに周辺の史跡を訪ねました。

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              石の宝殿(生石神社)の巨石

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                    時光寺古墳

1.日時 2016年(平成28年)6月25日(土)
2.集合場所、時間
   【9時】          阪急梅田駅3階改札内 神戸線側売店前
  【10時16分】 JR山陽本線宝殿駅改札前

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滋賀県栗東市の史跡を訪ねる

1.日時 2016年(平成28年)4月23日(土)
2.ルート
JR手原駅前10時40分頃出発
JR手原駅→(手原遺跡・旧東海道交差部) →椿山古墳→総合運動公園(昼食) →地山古墳→岡遺跡(栗太郡衙跡)→下戸山古墳 →小槻大社・小槻大社古墳群→和田古墳群(*) →JR手原駅16時半ころ解散
3.費用 会員は100円、会員外は600円。交通費は各自ご負担

見学ルート
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見学記『つどい』341号記事は最後に掲載しています。
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手原駅は東海道線草津駅起点の草津線にあります。幸い、東海道線の栗東駅に行ってしまった人はいませんでした。たぶん、いなかったと思います。

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手原駅の駅前に「手原遺跡」があります。白鳳時代から平安時代初期にかけての遺構や鎌倉時代にかけての掘立柱建物のあとが検出されています。古代の中心地のひとつであったようです。
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もう少し南に行くと手原稲荷があります。神社の北を東西に走る道が旧東海道です。ここから一里西には有名な草津宿があります。今回、草津宿まで歩こうかと一時は考えましたが、歩行距離が数キロ伸びそうなのでやめました。
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稲荷神社の前には、江戸時代に有名になった栗田八景をうたった七言絶句の一つ「手原行人」の句碑があります。また手孕み伝説にちなむと思われる手のひら型ベンチもあります。
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栗東市役所の南にある椿山古墳です。全長98m、5世紀初頭の築造だということです。この墳丘の頂上で、椿山古墳に加え消滅した大塚越古墳、新開1,2号、狐塚3号墳の解説をしていただきました。斜面の上で数十分間話を聞いているとさすがに疲れました。別のところでお願いすればよかったと反省しています。
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墳丘の上からは三上山はくっきりと見えます。       

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総合運動公園で昼食をとりました。天気が良すぎて、日影を探すのに苦労しました。公園の出口に狐塚遺跡の碑が立っています。遺跡の範囲は結構広いようです。

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運動公園を出て北に向かうと、手原稲荷と草津宿の間の旧東海道に突き当たります。左上の写真がシーボルトがおとずれた善性寺ぜんしょうじです。ここの住職と植物学の話をしたそうです。

まっすぐ行くと天井川となっている金勝川のものすごく高い堤防に突き当たります。

中世以前はまっすぐ栗太郡衙のほうに向かっていたのではないかと思います。江戸時代からは金勝川(こんぜがわ)の高い堤防に沿って、街道が湾曲しています。写真では風情があるように見えますが、実際は交通量が多く歩くには注意が必要です。

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先ほどの天井川の内側にある地山古墳です。全長約90mの帆立貝形古墳ですが、前方部は田んぼの中に埋まっており円墳にしか見えません。周濠も田んぼの中に埋まっているそうです。

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地山古墳の前です。そろそろマムシの季節なので、皆古墳から離れ気味に立っています。   

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岡遺跡に行く途中に岡村城址の説明板が立っています。足利尊氏に属した宇野氏の城です。当時はここで東海道の監視をしていたようです。今の地形から見ると、ここを東海道が通っていたとは、信じられません。65

岡村城址の近くにある岡遺跡です。7世紀後半から郡衙の前身である評衙があったとみられています。栗太郡衙としての最盛期は8世紀で、8世紀末から9世紀末にかけて縮小していったようです。
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名神高速の南の墓地の中に下戸山古墳が有ります。4世紀後半の直径55mの円墳です。

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ここで北谷11号墳の解説もしていただきました。もっとも、この位置からでは北谷11号墳のあった位置は見えませんでした。その代り、蕨がたくさんあったようで、古墳より蕨という人が何人かいました。

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式内小槻大社です。69   

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現社殿は1519年に建立されたもの。一間社としては大きいしきれいです。今回の参加者には小槻大社の氏子さんまでおられ話が盛り上がりました。

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小槻大社古墳群の説明板は立派だが、見るべきほどのものは無かったようです。

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最後に見学した和田古墳群です。6世紀中葉から7世紀前半頃までの9基の横穴式石室をもつ円墳から成り立っています。数年前から出土品文化財センターが非公開となっており、当日は休日でもあったので、塀の外から眺める覚悟をしていきました。幸い門の鍵が開いており、すぐそばで見ることができました。

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手原駅に戻ってきました。皆さん疲労困憊の様子でしたが、一時間に二本しかない電車にちょうど間に合いました。
本日の歩行距離は、3月よりやや長く7.8Kmでした。


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豊受大神宮の鎮座とその意義-5世紀末のヤマト政権と丹後-(荊木美行先生)

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皇學館大学研究開発センター 副センター長
荊木美行先生
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安倍文殊院・メスリ山古墳周辺の史跡を訪ねる

奈良県桜井市にある初期ヤマト政権の大王墓級の古墳として著名なメスリ山古墳をはじめ、安倍文殊院(西古墳・東古墳)および周辺の安倍寺跡、谷首古墳、上之宮遺跡、艸墓古墳などを見学しました。解説は中司先生です。

桜井駅前10:30出発→若櫻神社→土舞台→安倍文殊院(西古墳・東古墳)
→安倍史跡公園(安倍寺跡):昼食 →谷首古墳→コロコロ山古墳(移設)
→メスリ山古墳(墳頂)→上之宮遺跡→艸墓古墳→近鉄桜井駅16時頃解散
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今回のルートは

桜井駅を出発し、若櫻神社、土舞台、安倍文殊院、安倍寺跡、谷首古墳、コロコロ山古墳、メスリ山古墳、上之宮遺跡、艸墓古墳を回って、桜井駅に戻るコースです。今回の目玉は大王墓級の前期古墳であるメスリ山古墳です。

メスリ山古墳以外の古墳は6世紀末から7世紀初め頃の横穴式石室を持つ古墳ばかりです。

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最初は式内若桜神社です。

見かけはぱっとしませんが、奥に式内社2坐の本殿が並んでいます。

東側はもともとの若櫻神社で若桜部朝臣や安倍朝臣の祖である伊波我加利命(いわがかりのみことを祀っています。西側には名神大社の高屋安倍神社です。元は文殊院の東にあったものが江戸時代に山崩れに会い、こちらに遷座したものです。大彦命も祀られています。

22若桜神社は履中天皇の稚櫻宮跡だといわれています。磐余池で舟遊びをしているときに季節外れの桜の花びらが落ちてきて、それで宮の名前を稚櫻宮とした言う伝説があります。それにちなんで桜を植えた桜の井というものも一応あります。中司先生は、磐余池に近い池内の稚櫻神社のほうが、稚櫻宮ではないかというご意見でした。

当日はソメイヨシノはまだちらほらでしたが、しっかり咲いている種類もあり、春らしい一日でした。

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若桜神社から少し南に下り、桜井小学校の手前で西側の丘に登りました。ここには、南北朝時代や戦国時代にあった安倍山城跡(あべやまじょうあと)と聖徳太子が建てたという、土舞台の跡があります。日本最初の演劇研究所といわれています。遺構は何も残っておらず、息を切らして登った先が、説明板だけだったのでやや不評でした。

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安倍文殊院です。日本三文殊の一つです。他の二つは天橋立の智恩寺の「切戸(きれと)の文殊」、またの名を「九世戸(くせと)の文殊」山形県高畠町の大聖寺の「亀岡の文殊」です。

境内には安倍の晴明が修行したという場所もあり晴明堂も建てられています。写真は天文観測の地です。

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文殊院境内では、最初に文殊院東古墳を見学しました。こちらは西古墳ほど有名ではありません。中に井戸が掘ってあることから別名閼伽井。信仰の場であり、中には入れません。

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文殊院西古墳です。大化5年になくなった安倍倉梯麻呂またの名内麻呂の墓とみてほぼ間違いないとのことです。磨き上げた花崗岩の切石を積んだ両袖式の横穴式石室です。

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飛鳥の岩屋山古墳の石室もきれいですが、こちらは一段と美しく感じます。

天井は薄いかまぼこ状に彫りこまれています。一部漆喰も残っています。

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浮御堂を背景に記念撮影。

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安倍寺跡は文殊院の南西にあります。建立の時期は山田寺と同時期で、法隆寺方式。ただし、金堂と塔の間隔が大変広くなっています。講堂の位置については未確認のようです。平安時代末の東大寺要録によると、安倍寺は崇敬(すうけい)寺のことで、安倍の倉梯麻呂建立と伝えています。鎌倉時代に今の文殊院の位置に移転したようです。

広い境内で昼食としました。座る場所は基壇の部分しかありません。

史跡公園の北西に安倍寺瓦窯が保存されています。

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花をバックに記念撮影。花は後ろに隠れています。

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安倍文殊院の南方に谷首古墳が有ります。

35m×38mの方墳で墳丘の西半分には神社が鎮座しています。

入り口の天井石が半分落ちています。

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中に潜り込むと、石室は巨大です。玄室の高さ4mあります。安倍氏の族長の墓だろうということです。

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メスリ山古墳の横にあるコロコロ山古墳です。すぐ近くからこの地に移築されたものです。

柵があり鍵がついていたので入れないと思ったら、扉があき入れました。壁を見てると違和感はなかったのですが、天井を見たらコンクリート製でした。

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本日の目玉のメスリ山古墳です。4世紀中葉から後半代の前期古墳で、全長224m、後円部3段、前方部2段の前方後円墳です。白石太一郎先生は桜井茶臼山古墳とともに大王の墓と言っておられます。

塚口義信先生はこれと違い、被葬者は桜井茶臼山古墳がオオビコ命

メスリ山古墳はオオビコの命の子の建沼河別命(タケヌナカハワケノミコト)であるとした。

その理由は築造時期、副葬品の武人的性質とともにオオビコの命の末裔である阿倍氏勢力基盤がある地域に所在すること。特にメスリ山のある高田という地名は安倍氏の比賣(ひめ)「高田媛」ともつながるなどです。

中司先生も、大王であれば、前方部も三段築成であるべきと言っておられます。

以上のことは塚口先生の本に載っています。

なお、近々塚口先生の一般向け書籍が出版される予定です。そのなかにもメスリ山古墳や桜井茶臼山古墳のことが書いてあるようですから、ご期待ください。

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メスリ山古墳は後円部の石室及び上部の方形区画が非常に有名です。この絵のように、方形の基壇があり周囲を巨大な埴輪が取り囲んでいたそうです。石室は竪穴式石室で三角縁神獣鏡などの鏡や刀剣、石製品があり、東側に副葬品専用の副室が設けられているのが特異です。副室には多数の武器、農工具などが埋葬されていました。

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以前の現地見学では墳丘の下から見学でしたが、今回は後円部の上まで登りました。登りは急な傾斜で皆さん苦労されたと思います。下りは南の神社のほうにおりました。写真の、解説を聞いている位置は後円部の上、石室の東側、副室のあたりです。右手のくぼんだ場所は主室の部分です。天井石が見えます。

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後円部の方形区画にあった埴輪はいずれも巨大です。もっとも大きいものは胴の径が90cmで高さが2.4mです。本当は横にジャイアント馬場の写真を並べたかったのですが、著作権の問題を生じるといけないので、私の写真を貼り付けました。

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メスリ山古墳から出土した遺物の一部です。主室からは三角縁神獣鏡や内行花文鏡の破片、椅子形ほかの石製品が、副室からは玉杖、無数の銅鏃や刀剣などの武器、農工具が出土しています。たしかに四道将軍の墓とするとふさわしい感じがします。

この中で椅子状の石製品は京都国立博物館にあったものとメスリ山出土の破片が接合できたということで話題になったようです。また、すべて鉄でできた弓矢は、常陸の国風土記に記載はあるが、現物が出土したのは唯一とのことです。

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上之宮遺跡です。6世紀末葉には宮殿となっていたようです。聖徳太子が斑鳩に移る前の宮殿といわれています。広い遺跡ですが、復元された苑池遺構を除いて、すべて住宅地となっています。説明板の絵を見ると宮殿というにはつつましい感じがします。これが復元された苑池遺構です。

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民家の裏、溝の縁をつま先立ちで歩いていくと、急に目の前が開け艸墓古墳が現れます。

こんなに広かったかなと感じました。昔は平らなところがなかったような気もしたが

世紀第3四半期頃の方墳です。

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はば2.8mの玄室に身の部分で1.5mの幅をもつ家形石棺が置かれています。羨道の幅は2mなのでどのようにして入れたのか議論があるそうです。石室は巨石で作られていて、接合点に三角の石をはめ込み、漆喰が充填してあります。

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16時前、予定時間きっかりとJR桜井駅の南口につきました。本日の地図上の距離は6.5Km私の万歩計は1万1千歩。距離は短かったが、皆さんかなりお疲れの様子。やはり土舞台はパスすべきだったかもしれません。

 

いずれにしてもお疲れ様でした。

山背の古道(中村修先生)

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『古代史の海』編集顧問 中村修先生

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古墳研究の進展と停滞 後編その一(中司照世先生)

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中司照世先生『つどい』バックナンバー
数字(号数)をクリックenterすると閲覧できます。

312 古墳研究の進展と停滞(前編)
302 考古学から見た4・5世紀のヤマト政権と吉備(後篇ーその2)
300 考古学から見た4・5世紀のヤマト政権と吉備(後篇ーその1)
297 考古学から見た4・5世紀のヤマト政権と吉備(前篇)―吉備の動静に言及する前に―
277 考古学から見た3~5世紀の近江
260 5世紀のヤマト政権とコシ(越)
254 5世紀のヤマト政権と若狭

下記については「つどい300号記念CD」に収録されています。
事務局までお問い合わせください。
239 尾張の古墳と継体・安閑・宣化天皇
174 コシ(越)の政治集団とヤマト政権-在地豪族と対外交流-

宇治市の史跡を訪ねる

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                 宇治上神社(世界遺産)
2月の現地見学は宇治市の宇治上神社・宇治神社から二子塚古墳にかけての史跡を訪ねました。解説はいつものように、中司先生にお願いしています。なお、宇治二子山古墳は山上にあり見学が難しいので、今回は割愛しました。参加者は35名でした。 

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宇治川の南にある平等院鳳凰堂です。2年前に大修理が完了し、とてもきれいになっていました。
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宇治橋の東詰めから宇治上神社に向かう道に入ると、すぐ左に橋寺放生院があります。橋の守り寺として、秦河勝が建立したそうです。ここに有名な「宇治橋断碑」があります。
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宇治橋断碑」は冬期は公開されていないので、橋寺の前での説明になりました。
中央上のほうに見える屋根が碑の覆屋です。
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宇治橋断碑」は天平時代に作られたもので宇治橋が架けられたいきさつを六朝風の銘文で刻んだ石碑で重文です。
江戸時代の寛政3年に、山門前で上部3分の1の断石が埋まっているのが発見されました。下の部分を補い、現在の姿に復元されたものです。鎌倉時代に編纂された歴史書「帝王編年記」に原文が残されていたようです。

 群馬県の「多胡碑」、宮城県の「多賀城碑」とともに、日本三古碑に数えられています。

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またふり神社と読みます。平将門の平定に向かい、恩賞を得られなかった藤原忠文の怨霊を鎮魂する神社といわれています。


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宇治上神社の鳥居のところで神職さんと巫女さんに出迎えていただきました。実は豊中歴史同好会のお迎えではなく、婚礼のお迎えでした。
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宇治上神社は江戸時代までは宇治神社と一体でした。合わせて式内宇治神社です。今は世界遺産です。応神天皇の皇子の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の命が住んだ離宮桐原日桁宮の跡と伝えられています。宇治上神社は宇治の稚郎子尊のほかに父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。本殿は平安時代後期の建立で、神社建築としては現存最古。拝殿は鎌倉時代前期の建立で、寝殿造の遺構といわれています。ともに国宝です。


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宇治神社の本殿は、宇治上神社よりやや新しく、鎌倉時代後期の建立で重要文化財です。但し、神社の由緒書きには鎌倉初期と書いてあります。


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菟道稚郎子尊の墓、通称宇治墓です。

明治時代にここにあった盛土を中心に前方後円墳に作り上げたようで本当の菟道稚郎子尊の墓はどこかというと良く分らないそうです。

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ここで、二子山古墳や、菟道稚郎子の母はだれかということで詳しい解説を聞きました。尊の出自については前段のつどいの現見記をご覧ください。
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二子山古墳は後ろに見える低い方の山の上にあります。二子山古墳は時期や出土品はよいのだが規模が小さすぎるようです。これから行く五ケ庄二子塚古墳は大きさは十分だが時期が新しすぎるとのことでした。
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宇治川はもともと宇治橋のすぐ下流で巨椋池に注いでいましたが伏見城をつくときに大規模な工事をして、宇治川を伏見のほうまで導いたようです。図を見ると、伏見や中書島の付近まで巨椋池が広がっていたことがわかります。この太閤堤と槇嶋堤で宇治川の下流域を作り、小倉堤を築いて大和街道を通したようです。400年以上前に大規模な工事をしたもんだと思います。

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岡本廃寺です。
小さな公園に説明板と石が置いてあります。7世紀後半築造の法隆寺西院方式の寺です。塔の礎石と書いてありますが、とても礎石には見えません。
周りは新興住宅地となっています。周辺にはかつて古墳群もあり岡屋の津想定地もあることから岡屋公の創建にかかわる寺のようです。

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瓦塚古墳は昔の陸軍省火薬製造所、現在の京都大学職員官舎の南の田んぼの中にあります。直径30m2段築成の円墳です。主体部が2段重ねで存在し、豪華な出土品があることから、円墳ではなく、帆立貝形とみるべきかもしれないとの話でした。

私有地で、墳丘上は畑なので、皆さんには墳丘に上らないようにお願いしました。


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瓦塚から旧陸軍省の用地、いまは京大宇治キャンパス・幼稚園・自衛隊補給基地の東側を大う回し五ケ庄二子塚古墳に向かいました。

五ケ庄二子塚古墳は全長112mの大型古墳です。しかしながら大正時代に京阪宇治線の土取りのため後円部を大きく破壊され主体部があったところは基盤しか残されていません。
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最後に二子塚前方部前で記念撮影。さらに、二子塚の東側を回ろうかという話も出ましたたが、皆さんお疲れの様子だったので、やめて駅に直行しました。
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おつかれさまでした。
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蛍池の遺跡②

 豊中歴史同好会の例会が毎月開催されているルシオーレビルは、阪急電車蛍池駅の西側にありますが、この辺りには古墳時代から江戸時代にわたる遺跡があります。

 この地点での発掘調査結果について、豊中歴史同好会の会報『つどい』第156号(2001.5.1.)には次の2つの講演録が掲載されています。

(1)市本芳三氏「麻田藩陣屋跡の発掘調査成果について」
(2)合田幸美氏「五世紀の大型建物遺構について」

 いずれも豊中市が誇るべき文化財についての記録と考えます。

 ここには、(2)の合田幸美氏の講演録を再録します。

 再録に当たっては、著者の合田幸美氏のご了解を得て、基本的には原文通りとしましたが、図面等についてはホームページ上での公開を念頭において必要最小限の修正を加えました。
 なお、著者の肩書きについては、講演をされた時点の肩書きのままとしてあります。

              五世紀の大型建物遺構について

                     大阪府文化財調査研究センター 合田幸美

1.蛍池東遺跡の大型建物

 蛍池東遺跡は、蛍池駅の北西、阪急宝塚線と豊中市立第十八中学校の間に位置し、南北250メートル、東西150メートルの範囲にひろがります。

 1992年から1993年にかけて、大阪モノレールの建設に伴い発掘調査をおこなったところ、5世紀前半の大型建物、5世紀中頃の竪穴住居群、6世紀の竪穴住居と掘立柱建物、8世紀の掘立柱建物がみつかり、蛍池周辺の古墳時代から奈良時代の集落の変遷を明らかにすることができました。

 今回はとくに、この蛍池の地が重要な役割を果たしていたことを示す、日本最大級の建物遺構である五世紀前半の大型建物についてお話いたします。

 大型建物は、遺跡の北半の段丘上でももっとも高い部分に位置します。
 現在でもモノレールの側道を蛍池駅から北に向かって歩きますと、モノレールの橋脚の P89 から P90 のあたりが一番高くなり、そこからまた北に向かって降っていきますが、大型建物はまさしくこの P89 から P90 にかけての位置でみつかりました。

 この場所は、現在は家々が建ち並びあまり眺望がききませんが、古墳時代には酉に猪名川を見おろし、猪名川河口から南にかけては大阪湾岸と、南北にのびる上町台地を展望できたと考えられ、水運の掌握には非常に適した場所といえます。


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 大型建物は、建物1~3の3棟がみつかりました。3棟とも第十八中学校側におちる段丘崖に沿つて主軸をもち、地形にそくした配置がなされています。

 また、建物2と3の北東辺および建物1と2の北西辺はそろうことから、計画的な配置がなされたと考えられます。

 また、1993年以降に建物1から南西約40メートルの地点でなされた豊中市教育委員会の調査で、建物3と主軸を同じくする大型建物がみつかっていることから、大型建物は最多十~十二棟が建ち並んでいた可能性があります。

 建物1と3は桁行五間、梁間五間で棟持柱を2本もつ総柱建物です。
 側柱の掘形は長方形から方形であり一辺80~90センチメートル、深さ50~60センチメートル、柱材の直径は30センチメートルです。
 内部の柱の掘形は方形であり一辺40センチメートル前後、探さ10~20センチメートル、柱材の直径は20センチメートルです。

 建物1と3を比べますと、建物1の平面形が桁行11.0~11.2メートル、梁間9.15~9.4メートルの長方形であるのに対し、建物3の平面形は桁行11.08~11.3メートル、梁間10.25~10.30メートルと建物1に比べ方形に近く、その分面積が大きいことがわかります。

 また、桁行の側柱が建物1は長方形、建物3は方形で、形とともに大きさも異なります。
 棟持柱の位置も建物1では側柱から1間内側の柱列より柱1本分外側に出るのに対し、建物3では側柱から1間内側の柱列と同列に並ぶ点で異なります。

 平面形が方形で、構造上建物1に比べ不安定であつたと考えられる建物3では、建物の隅にあたる側柱の堀形が、階段状のものや礫を含む基盤層を掘り残すもの、埋土に礫を入れるものがあり、荷重のかかる柱を支えるため、さまざまな工夫がなされたようです。

 建物2は5間×1間を検出したのみで全貌はわかりません。
 内部の柱は撹乱により明確なものはみつかっていません。

 建物の廃絶後に柱の掘形に入れられた土器や建物の廃絶後にひろがる竪穴住居出土土器から、建物1~3は五世紀中頃には廃絶したことが明らかであり、建物1~3が存続していた年代は五世紀前半と考えられます。

 建物の上部構造については、奈良女子大学の上野邦一氏に遺構からの復原をお願いしました。
 上野氏によると、側柱だけで建物の荷重を支えることは困難と考えられるため、側柱が建物の枠組を決め立ち上げ、内部の柱が桁を支える構造が考えられるそうです。

 屋根は入母屋、寄棟、切妻屋根が考えられますが、寄棟、切妻屋根は構造上無理があり、入母屋屋根とする案が有力だということです。

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 では、このような大型建物群を誰が造り管理したのでしょうか。

 年代的にも重複し、同じ猪名川流域を望む桜塚古墳群の被葬者が最も有力な候補としてあげられます。一方、日本書紀(雄略12年)に天皇が木工闘鶏御田(猪名部御田というは誤り)に命じて楼閣を造るという記述があり注意されますが、年代的に整合性を欠き、地域も不明瞭であるため、参考として考えおくにとどめたほうが良いと考えられます。


2.大阪湾岸の大型建物 ―法円坂遺跡と鳴滝遺跡―

 蛍池東遺跡と同じような大型建物がみつかった遺跡には、上町台地のほぼ先端に位置する大阪市法円坂遺跡、紀ノ川をさかのぼった地点に位置する和歌山県鳴滝遺跡があり、大阪湾岸沿いの北・中・南の3地点に大型建物群が存在したといえます。

 大阪市法円坂遺跡では、16棟の建物がみつかり、入母屋屋根に復原されています。
 一方、和歌山県鳴滝遺跡では、7棟の建物がみつかり、切妻屋根に復原されています。

 建物規模を比較すると、和歌山県鳴滝遺跡は60~80平方メートル、大阪市法円坂遺跡は平均93平方メートル、蛍池東遺跡は103~115平方メートルと、蛍池東遺跡の大型建物が非常に大きいことがわかります。

 3遺跡に共通することは、大阪湾をとりまく交通の要衝の地に立地していることです。
 これら大型建物が建てられた五世紀は、船形埴輪にみられるように、船による海上輸送が物資運搬の主翼を担った時代です。
 逆に五世紀とは、こうした船による運搬に適した場所に巨大な倉庫を設け、物資を管理する必要性があつた年代ともいえます


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3.5世紀という時代

 では、こうした巨大な倉庫が設けられた5世紀とはどのような時代なのでしょうか。
 5世紀は倭の五王の時代としてよく語られます。

 広開土王碑文にみられるように、倭は4世紀末から朝鮮半島への進出を果たし、百済、新羅を破りますが、その後高句麗との戦いに敗れます。
 しかし、東アジアにおける国際的地位を高めるため、倭の五王は東晋、宋へと朝貢し朝鮮半島におけるその位置づけをアピールします。

 このような倭の五王への権力の集中は、古市古墳群および百舌鳥古墳群の大型前方後円墳にその大きさをみることができます。
 また、この時期、朝鮮半島の動乱にともない、多くの技術者が海を越え倭に流入したことが、須恵器、甲胃、馬具などの遺物からうかがえます。

 蛍池東遺跡の大型建物も、厳密な設計、これに基づく材料の調達、綿密な施工管理が適格な技術者を擁して組織的になされないと、その構築は困難と考えられる建物であり、こうしたすぐれた技術をもつ渡来系の人々によって構築されたと考えられます。

 蛍池束遺跡、法円坂遺跡、鳴滝遺跡でみられる大型建物群は、5世紀に限ってみられる遺構であり、古市古墳群および百舌鳥古墳群の大型前方後円墳と同じく王権のピーク時の所産と考えられます。

 蛍池周辺では大型建物の廃絶後は竃をもつ竪穴住居がひろがるなど、多くの渡来系の人々が流入する五世紀の動きを如実に示す考古資料にめぐまれた地域です。最大級の規模をほこる大型建物は五世紀におけるこの地の先進性、重要性を示す資料として非常に価値が高いと考えられます。


【参考文献】
(1)『豊中市所在 宮の前遺跡・蛍池東遺跡 蛍池遺跡・蛍池西遺跡
1992・1993年度発掘調査報告書 ―大阪モノレール蛍池東線・西線建設に伴う発掘調査―』1994.3.31.(財)大阪文化財センター
(2)植木久「豪族居館と建物構造」『季刊考古学』第36号 1991.8.1. 雄山閣

最終更新日
2010.05.14
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2016.02.12 nifty @homepage 閉鎖に伴い本ブログに移行

蛍池の遺跡①

  豊中歴史同好会の例会が毎月開催されているルシオーレビルは、阪急電車蛍池駅の西側にありますが、この辺りには古墳時代から江戸時代にわたる遺跡があります。

 この地点での発掘調査結果について、豊中歴史同好会の会報『つどい』第156号(2001.5.1.)には次の2つの講演録が掲載されています。

(1)市本芳三氏「麻田藩陣屋跡の発掘調査成果について」
(2)合田幸美氏「五世紀の大型建物遺構について」

 いずれも豊中市が誇るべき文化財についての記録と考えます。
 ここには、(1)の市本芳三氏の講演録を再録します。

 再録に当たっては、著者の市本芳三氏のご了解を得て、基本的には原文通りとしましたが、図面等についてはホームページ上での公開を念頭において必要最小限の修正を加えました。なお、著者の肩書きについては、講演をされた時点の肩書きのままとしてあります。

               麻田藩陣屋跡の発掘調査成果について

                         大阪府文化財調査研究センタ一 市本芳三

 (財)大阪府文化財調査研究センターは、蛍池駅西地区の再開発事業に伴い、平成11年11月より発掘調査を行っており、現在も調査を進めています。

1.麻田藩陣屋跡の立地
  ~重要な街道を取り込む~

 陣屋跡北方には、西国街道が東西に走り、南北に能勢街道が走っています。陣屋はこの能勢街道を陣屋内に取り込んで、交通の要衝としておさえていたことがわかります。
 地形的にみれば、段丘の縁辺に位置し、陣屋の西側と南側が段丘崖になつています。
 自然地形をうまく、活かしているようです。


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2.麻田藩と青木氏
  ~江戸初期より明治の廃藩置県まで14代続く~

 麻田藩は初代青木一重に始まり、14代にわたって江戸初期より幕末まで続いた1万石の小藩です。外様ながら領地替えもなく継続したことは非常に稀なことです。

 一重は美濃の生まれで、今川氏・徳川氏に仕え、その後、豊臣秀吉・秀頗に仕えていました。豊臣方として大坂冬の陣で奮戦し、翌年には徳川との和議の使者として駿府に行くことになります。 しかし、帰路、京都にて拘束され、大坂夏の陣には参戦することなく、豊臣氏は滅びてしまいました。

 徳川の敵方である青木氏は本来ならば、豊臣氏と同様に滅ぼされることになるはずですが、「以前は家康に仕えていた」「夏の陣に参戦していない」ことが功を成したのでしょうか、外様ながら、再び徳川氏に仕え、麻田の地を賜ることとなりました。
 以降、元和年間(一六一五~)から始まり、二代重兼の頃の一七世紀半ばには整えられたようです。

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               淺田班主青木氏の年表
    『文化財ニュース豊中』No5 S61.10.4豊中市教育委員会を参考

3.絵図と発擬調査でみつかった遺構(溝・井戸・ごみ穴)
  ~絵図のまま?~

 陣屋を描いた絵図は江戸時代のものが1枚、明治初頭のものが2枚残っています。
絵図によると陣屋の全体の形は逆L字形をしており、北・東・南辺に外堀が巡っています。
西辺は段丘崖になっており、自然地形を利用しています。
北門から南門にかけて中折れのある道路が陣屋中央を貫き、陣屋中央には藩主邸がおかれ、北辺と東辺には重臣の屋敷が並んでいます。
 この蛍池公民館は藩主邸の庭園にあたるようです。

 今回の調査地は東側に連なる重臣の屋敷地にあたります。
 図2の絵図には屋敷地ごとに「表○間○尺」、「裏○間○尺」とあり、間口の幅が詳細に記されています。
発掘する前にこの数字を手掛かりに現在の地図と重ねると、どのあたりに屋敷地境が検出されるか、見当をつけることができました。
また、この作業をすることにより、現在の宅地の境や道路が陣屋の時代からそのまま、踏襲されていることもわかりました。
絵図には外堀、塀、門、建物、鳥居、社などが描かれていますが、このすべてが発掘によって発見されたわけではありません。

 廃藩置県後、田畑や宅地となり、大きな改変を受けています。
この当時の建物は直径30センチメートル程の石の上に柱を建てたものなので、なかなか、その痕跡を見つけることは困難です。地面に掘り窪めたものだけが、みつかります。
 屋敷境は溝あるいは柵としてみつかり、溝には石列や丸太が伴っています。
 門構えはみつかつていませんが、青木別邸の火の見櫓の基礎部分と思われる大きな石列が検出されました。

 その他に、石組・素掘の井戸、ゴミ穴、便所として使われた大甕などがみつかりました。土師器の小皿が六枚重なつた状態で小さな穴から出土しており、地鎮を行ったと考えられます。

 外堀は現水路と重なっており、ちょうど現在の歩道の下にあたるようです。
 宮本邸部分の堀は調査区内だったので、外堀の屈曲部分を明らかにすることができました。この地点はモノレール建設時の発掘調査においても、すでに外堀が確認されておりました。
 外堀の幅は約1間(1.8メートル)あり、内側には土塁があつたようです。絵図にも外堀内側には薄く色の付いた帯が描かれています。土塁には水抜き用の石で作られた暗渠が伴っていました。

 森本邸にあたるところでは、絵図に描かれていない大溝が陣屋の地割りとは、ずれた方向で伸びていることがわかりました。幅約2メートル、深さ1.5メートルを測り、断面Ⅴ字形を呈しています。絵図に描かれた陣屋の形ではない時期があつたようです。


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4.発掘でみつかった遺物(瓦・器・土製品・貝)
          ~当時の生活を復原する重要な証拠品~

 井戸やゴミ穴から沢山の遺物が出土しました。江戸時代を通して、17世紀から19世紀まで、青木氏14代の生活品をみることができます。
 麻田藩初期の17世紀のものはあまり多く出土していません。
 時代が新しくなるにつれて生活の道具の種類が増えていったようです。
 皿・碗・そば猪口・擂鉢・甕・壷・花瓶・徳利・水鉢・溲瓶・急須・灯明具・化粧道具・水滴・漆器椀・箸など多くあり、いろいろな産地のものがあります。中には一度割れた皿を継いで修理しているものもありました。

 器ばかりではなく、貝殻も出土しています。
 シジミ・ハマグリ・アカガイ・サザエなど色々な貝を食べていたようです。


5.さいごに
 今回の調査地は陣屋絵図から東辺に並ぶ重臣邸の九邸部分にあたることが想定でき、発掘調査においては、屋敷境溝・外堀が確認され、絵図と発掘調査結果が整合性をもつことが明らかになりました。
 また、屋敷境は現在の地割りと重なつており、江戸時代の地割りが現代まで踏襲されていることもわかりました。
 遺物では、青木氏の裏紋である「洲浜」紋をもつ瓦が分家家老青木邸から出土した、他当時の生活を窺う多量の陶磁器が出土し、貴重な資料を得ることができました。


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【参考文献】
(1)『麻田陣屋跡』(財)大阪府文化財センター調査報告書 第81集 (財)大阪府文化財センター 2002.9.

更新日:
2010.05.14

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5・6世紀の播磨と於奚・袁奚伝承(中久保辰夫先生)

つどい337号

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以下検索用テキスト文

一.はじめに 『播磨国風土記』について
『風土記』とは、西暦七一三年(和銅六年)五月、中央政府より作成・提出が各国に命じられた地誌である。その内容として求められたものは、郡や里、山河原野等の地名由来、土地の肥沃度や物産内容、古老らの伝承等であり、八世紀初頭における地域認識を垣間見ることができる。現在、播磨に加え、常陸、出雲、豊後、肥前の『風土記』が伝わっている。
『播磨国風土記』には、明石(あかし)、賀古(かこ)、印南(いなみ)、飾磨(しかま)、揖保(いいぼ)、赤穂(あかほ)、讃(さ)容(よ)、宍禾(しさわ)、神崎(かんざき)、託賀(たか)、賀(か)毛(も)、美嚢(みなぎ)の合計十二郡に関する情報が収載された。ただし、唯一の写本である「三条西本」では冒頭から明石郡の部分、赤穂郡の箇所が散逸し、情報が欠落している。
一八五二年に国学者の谷森善臣が写本を作成して以降、『播磨国風土記』は広く知られるようになり、井上通泰、秋本吉郎による研究をはじめとする厚い研究史とともに近年では坂江渉、古市晃による地域に根ざした実証的な研究がなされている(坂江二〇〇七、古市二〇一四)。その成果をもとに基礎的な情報をいま一度まとめると、『播磨国風土記』は播磨国大目(おおさかん)(四等官)の楽浪(さざなみの)河内(かわち)が編纂責任者であることが有力視されており、中央政府の命を受けた間もない時期に作成されたと考えられている。さらに正式に朝廷へ提出されたものではなく、播磨国庁に集められた未完成の草稿本であったと考証されており、播磨各地の実態を探る上ですこぶる重要な情報を収載している。
 一方、考古学は古墳や寺院、集落跡の発掘調査から、必ずしも記録に記されない地域の有力者像を明らかとしたのみならず、食住をはじめとする生活や日常/非日常になされた儀礼の痕跡、集落の動態や地域を越えた交易が果たした役割を物語ってきた。製作や消費の時期が記されていないことが多い考古資料の年代決定は、新資料の発見や編年研究の進展によって変動する可能性があるものの、現在、詳細に時期を絞り込んで推定することができる。それゆえに『風土記』が編まれる時期をさかのぼって、古墳の築造時期、寺院の創建年代、集落の消長といった検討が可能となった。
 古文献と考古資料の双方には利点があり、言うまでもないことながら、資料的な限界がある。考古学の場合、開発行為によって発掘調査がなされることが多く、『風土記』が記す主要な伝承地ばかりが調査の対象となっておらず、パズルになぞらえるならば、どうしてもピースが欠けている。しかしながら、それぞれの弱点を補いつつ、歴史像を復元できる地域は限られており、播磨はこの意味において格好のフィールドである。考古学の立場に立てば、学問上の有効性が試される場であるとも言えよう。
 本発表では、『播磨国風土記』のなかでも美嚢郡という小地域を題材として、於奚・袁奚伝承について、その実態解明に挑んでみたい。

二.於奚・袁奚伝承について
 『播磨国風土記』のなかで、美嚢郡(みなぎのこおり)は現在の行政区分でいう兵庫県三木市、神戸市北区淡河(おうご)に該当し、兄弟である於奚(おけ)(意奚、億計、のちの仁賢大王)・袁奚(をけ)王子(弘計、のちの顕宗大王)を中心に記述がなされている(本稿では、『播磨国風土記』沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著、山川出版社の表記に基づく)。類似した記述は、『日本書紀』清寧二年十一月条にもみえることから、この伝承は中央政権の皇統認識とも連関している。
於奚・袁奚二王子は、雄略大王、清寧大王に続いて即位し、順に顕宗大王、仁賢大王となり、即位に際しては兄弟で皇位を譲り合ったという美談が伝えられている。仁賢大王の後は武烈大王が、その後には、政治的な変動を伴って継体大王が擁立されて即位する。実のところ、顕宗、仁賢大王は在位期間や実在性について疑問を挟む余地も少なくないが、その治世は五世紀末頃と推測されている。
ごく簡単に『風土記』に記された内容を時系列で示すと、次のようにまとめることができる。
1.於奚・袁奚王子の父(『風土記』は市辺天皇命と記す)、近江国で殺害される。
2.於奚・袁奚王子、日下部連(くさかべのむらじ)意(お)美(み)に連れられ、志染里の石室に身を隠す。
3.日下部連意美自殺。二王子、身分を隠し、志染村首伊(しじみのむらのおびとい)等(と)尾(み)(『日本書紀』では縮(しじ)見(みの)屯倉首(みやけのおびと)忍海(おしぬみ)部造(べのみやつこ)細目(ほそめ))に仕える。
4. 首伊等尾の新室完成祝宴時に、二王子、身分を明かす。
5.祝宴出席者の針間国山門領に仕える山部連(やまべのむらじ)少楯(おだて)、中央に報告
6.二王子が中央に迎えられる。
 こうした伝承については、それぞれに興味深い点を含むものの、先に結論を言えば、『風土記』の伝承を史実として明確に示す考古資料は未だ得られていないか、追認するには難しい状況にある。
 また、この二王子は『播磨国風土記』賀毛郡の条に記された根日女(ねひめ)との悲恋談にも登場する。根日女の墓は玉丘古墳であると『風土記』は記すが、玉丘古墳は四世紀末から五世紀初頭に築造された古墳であり、これも年代的には問題がある。

三 於奚・袁奚伝承を考古資料から考える
 於奚・袁奚伝承が伝わる美嚢郡について現在の考古資料を検討してみよう。
美嚢郡の郡名由来は、履中大王(大兄伊射報和気命)が志染(しじみ)里(さと)の許曽社(こそのもり)(場所不明)に到着した際に、当地の水流の美しさを称えたためとされている。美嚢郡は、志染里(三木市志染町一帯、神戸市北区淡河の範囲)、高野(たかの)里(三木市別所町付近)、枚(ひら)野(の)里(久留美村から三木)、吉(よ)川(かは)里(旧口吉川・中吉川・奥吉川村)の四つの里があり、高野里、枚野里の比定については、近世以降の地域区分を基礎に『美嚢郡史』や『三木市史』で右のように比定されているが、地形的には疑問もあり、再検討の余地がある。
美嚢郡にみられる考古資料の実態は、高野里における初期群集墳である高木古墳群、古墳時代後期後半から終末期にかけて大型横穴式石室を築いた正法寺古墳群、枚野里における集落と有機的な関係を示す年ノ神古墳群・遺跡など、『風土記』に負けず劣らずの情報を伝えてくれる。しかしながら、『風土記』が記された八世紀をさかのぼる時期の有力古墳や寺院の痕跡、集落は、その多くが『播磨国風土記』美嚢郡条にあらわれない。八世紀段階には、郡衙がおかれた蓋然性が高い志染里が地域内の中心となり、高野里・枚野里の郡内での存在感が相対的に下がったと考えられる。それゆえ風土記には志染里の記述が中心となり、八世紀初頭における郡内の地域間関係が『風土記』に反映している蓋然性が高い。
 そのうえで、志染里を中心に於奚・袁奚伝承と関連する考古資料を検討してみたい(図1)。
 まず、『風土記』に記された「志染村首伊等尾の新室」、『書紀』にみえる「縮(しじ)見(み)屯倉」といった記載を吟味するために、集落遺跡の動向からみてみよう。こうした記述との関連を想起させる現象としては、当地域において五世紀に集落遺跡が増加することがあげられる。カマドを有する集落が普及し、志染里の山中にも、渡来系集団の足跡が認められる淡河中村遺跡が存在するなど、この地域の再開発がなされたと考えられる。
 他方、現在、「縮見屯倉」の候補地は、①志染中中谷遺跡(三木市志染町)と②勝雄遺跡(神戸市北区淡河町)が推測されている。二王子の伝承地は、現在の志染町一帯にまとまっていることから、志染中中谷遺跡が最有力であろう。志染中中谷遺跡は実態が不鮮明なところが多いが、奈良時代に属する井戸状の石組、溝状遺構が確認され、漆付着土器、墨書土器、唐草文軒平瓦が出土した。しかし、二集落遺跡ともに飛鳥・奈良時代を中心にするものであり、五世紀後葉に大型集落が存在した可能性は低い。
 古墳の築造動向はどうだろうか。五世紀代では枚野里・年の神6号墳(五世紀前葉)、高野里・高木古墳群(五世紀初頭~後葉)、明石郡となるが五世紀後半の西神ニュータウン第87地点遺跡など、中央政権から下賜されたとみて大過ない帯金式甲冑を有する初期群集墳があり、中央政権との関係は確実に捉えることはできる。しかしながら、こうした副葬品を有する古墳群は、伝承地となる志染里には現在のところ確認できず、里内にある吉田住吉山古墳群は突出した内容をもつものではない。
 むしろ、『日本書紀』にみえる「縮見屯倉首忍海部造細目」との関連性では、古墳時
代後期の古墳が注目される。志染里に存在する窟屋1号墳より出土した鉄釘型式は、金田善敬氏の分類によるⅩ類に該当し、大和盆地南西部の鍛冶工房で製作される型式である(金田一九九六・二〇〇二、池田編二〇〇九)。副葬されていた金銅製単鳳環頭大刀柄頭の存在も考え合わせると、窟屋1号墳の被葬者が縮見屯倉の管理者や村首(むらのおびと)の候補となる。
 しかし、この窟屋1号墳は六世紀後半の古墳であり、『風土記』や『書紀』の記載とは年代的な乖離がある。
したがって、於奚・袁奚二王子の伝承は、五世紀後半代の史実を如実に反映したものであるとはいい難い。むしろ、断片的な考古資料を重ねあわせて理解することが許されるのであれば、五世紀における地域開発、六世紀後半の葛城地域との政治的関係といった記憶が集積されて、八世紀初頭段階に伝承が構成されたと考えた方が整合的である。

四 記憶の集積としての『風土記』
 図2は、美嚢郡の里別に遺跡の動態と『風土記』の伝承事項を検討したものである。発掘調査の成果は、例えば水稲農耕の定着以降、弥生時代から古代まで集落が連綿と続くものではなく、集落跡の場所や性格は変動することを明らかとしてきた。同様に古墳にあらわれる地域内の勢力関係もまた、中央の政治動向等と密接に連関し、盛衰を示すことが判明している。こうした考古学上の研究成果は、地域社会を、時代をさかのぼって記載する『播磨国風土記』について、新たな分析視座を提供するものである。考古資料の実態を付き合わせて検討する作業は、『風土記』記述の際に取捨選択されたもの、記述された事象の形成過程を考える上で有効な手がかりとなるのである。
 四世紀代の有力集落や古墳であっても、『風土記』の記事を書く八世紀初頭の段階では、すでに埋没しているものもあれば、すでに古墳という認識が亡くなってしまった、つまり時の流れから切り離されて遺跡となったものがある。こうした考古資料は、不可視的な存在であるがゆえに、地域社会の記憶から漏れ落ち、記載の対象とはならない可能性が高い。一方で、窟屋のような希少な自然景観、あるいは古墳など可視的で記憶されやすい記念物は、語り継がれて地域歴史認識の一部となるものもあったと考える。
 於奚・袁奚伝承についても、断片的かつ重層的な記憶の集積が、可視的な記念物と結びつき、『播磨国風土記』に収載されることとなったと捉えることもできるのではないだろうか。

参考文献
池田征弘編二〇〇九 『窟屋1号墳』 兵庫県教育委員会
金田善敬一九九六 「古墳時代後期における鍛冶集団の動向―大和地方を中心に―」『考古学研究』第43巻第2号 考古学研究会
金田善敬二〇〇二 「岡山市根岸古墳出土の二種類の鉄釘」『環瀬戸内海の考古学』平井勝氏追悼論文集 古代吉備研究会
是川 長・岸本雅敏ほか一九七〇 『三木市史』 兵庫県三木市
坂江 渉二〇〇七 『風土記からみる古代の播磨』 神戸新聞総合出版センター
古市 晃二〇一四 「古代播磨の地域社会構造」『歴史評論』七七〇 歴史科学協議会
三木市教育委員会二〇〇一 『三木市遺跡分布地図』

初詣新年会と垂水・西舞子周辺の史跡見学

平成28年1月23日 神戸市垂水区の海神社にて初詣
新年会 増田屋本店
五色塚古墳・小壺古墳、大歳山遺跡、狩口台きつね塚古墳
10:00 阪急梅田駅3階改札内 神戸線側売店付近集合
11:05 JR垂水駅西口(山陽垂水駅西口)改札前 集合

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欽明天皇の奥津城は何処か(高橋照彦先生)

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大阪大学教授 高橋照彦先生

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雄略朝~継体朝における九州とヤマト政権(宇野慎敏先生)

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一.はじめに
 これまで九州の雄略朝~継体朝に関しての研究は、継体天皇二十一年の筑紫君磐井の乱を中心に行なわれていた感がある。乱以前の九州諸豪族の動向や乱後の糟屋屯倉の献上、そして安閑天皇二年の屯倉の設置による中・北部九州の諸豪族の変化などについて論究したものが多い(小田一九七九)。
 概ね乱以前と乱後ということで、乱以前は雄略朝から継体朝前半、乱後は継体朝後半以降を取り扱っている。このため、筑紫君磐井が没し、石人石馬の衰退から装飾古墳の盛行という変化過程で理解されているのは周知のことである。
 本稿では、五世紀後半代と六世紀前半代を比較し、雄略朝から継体天皇の転換点に中・北部九州で、どのような変化が起きたのか、あるいは諸勢力の動向にどのような変化・画期が見られるのかを検討した後、そういった変化や画期の背景にどのようなことが考えられるのかを検討することにしたい。

二.集落の動向から見た変化と画期
 博多湾沿岸の糸島平野から早良平野、そして福岡平野の三つの平野に現在一三〇余の集落遺跡が知られている。石井陽子氏は、このうちの一二八遺跡の集落跡の動向を調べた。それによると糸島平野の集落遺跡は弥生時代初期後半から古墳時代終末期までを通じて遺跡の数において緩やかな変化が見られると指摘する。それに比して早良平野と福岡平野は、弥生時代後期後半から古墳時代前期前半に急激に集落数が増えるとする。その背景には全体的に人口が増加し、同時に集落が分岐したと考えられるとする。それは博多湾沿岸では、朝鮮半島や畿内、瀬戸内、山陰から多量の搬入土器が見られ、これらは交流の成果で人の動きも盛んになったことによるものとし、西新町遺跡など朝鮮半島からの後住者の可能性も指摘している。その後急激に集落数は減少し、古墳時代中期中頃に最も少なくなり、大画期が見られるとしている。その背景には、集落数と竪穴住居数がともに減少することから大規模な集落へと集約する動きではなく、全体的な人口減少が想定されるとする。その後、集落数は古墳時代中期中頃を底値として、古墳時代終期中頃のピークへ集落数の増加が見られる。それは集落数、竪穴住居数ともに著しい増加を示し、増えた集落のほとんどが小規模で短期継続型であるとしている(石井二〇〇九)。
 その背景に五世紀後半に父系直系的家族が出現し、傍系親族が直系親族に従属することになり、世代をへるごとにその度合いを増していくという田中良之氏の研究がある(田中良之一九九五)。六世紀後半にかけての集落数と竪穴住居数の増加は、まさに傍系親族の分節化、独立を示していると考えている(石井二〇〇九)。このように石井氏は博多湾沿岸の集落の変化には、背景に全体的な人口の増加や母系から父系化への分節化があると考えている。
 筆者は、福岡平野の東側、玄界灘に面する宗像・遠賀川下流域の集落の動向と、筑後甘木や小郡市内の集落の動向を検討した。
 福岡平野のすぐ東側に所在する福間・津屋崎地域の集落は、福岡平野と同じ弥生時代終末期から古墳時代前期前半頃にかけて増加し、五世紀前半から中頃に減少する傾向が見られた。
 遠賀川下流域の水巻町・遠賀町・岡垣町の三つの地域では集落数が少なく、福岡平野と比較できないかもしれないが、おおよその傾向では、水巻町では福岡平野と同様に古墳時代中期中頃に最も少なくなる傾向がみられるものの、遠賀町では弥生時代後期後半から古墳時代前期、中期前半頃にかけてほとんど無く、五世紀後半の中期後半から集落数の増加が見られる。宗像に近い岡垣町では古墳時代前期から中・後期にかけて徐々に集落数が増える傾向が見られる。筑後の甘木では、古墳時代前期後半~初期前半頃まで、ほとんど集落は見られない。小郡市内では概ね福岡平野と同じ傾向が見られることがわかった。
 このように四つの地域を見ていくと、人口の増加や減少は各々の地域毎に異なることがわかる。それは地域毎によって人口の増減の程度が異なったり、あるいは時期が少しずつ異なっていると考えられる。また父系への転換も地域によってその度合いが異なっていたことも考えられる。
ただそうした理由だけではなく、他の要因についても次に検討していくことにする。

三.北部九州の首長系譜からみた三つの類型
 北部九州における首長系譜を見ていくと、五世紀代を通じて継続していた首長系譜が断絶するものと、そのまま六世紀代に入っても継続して首長墓が営まれる地域、そして五世紀代には首長墓が築かれなかったが六世紀代に入って新たに首長墓が築かれ継続して首長墓が営まれる地域の三つのパターンが想定される。
 まず、五世紀代に継続して営まれていた首長系譜が六世紀代に入って築かれなくなる地域について検討することにする。

A.首長系譜の断絶
 六世紀代に入って首長墓が築かれなくなる地域は、西国東と玖珠、日田の三地域を除いた豊前南部から豊後地域である。現在の大分県全地域に近い範囲である。
 こうした六世紀以降に首長墓が築かれなくなった理由を田中裕介氏は、「広域盟主墓は豊後外?」ということで「前方後円墳の築造停止を伴うひとつの政治的変動があった事をしめしている」と指摘する(田中裕介二〇一〇)。
 田中裕介氏は明言されてはいないが、おそらく「広域盟主」とはヤマト政権を指しているのではないかと思われる。それは国東半島は入津原(にゅうずばる)丸山古墳(七七メートル)や真玉大塚古墳(一〇〇メートル)などが築かれる西国東地域と、御塔山古墳(八〇メートル)が築かれる東国東地域の2つに分かれる。東国東は五世紀前半の御塔山古墳以降は、首長墓は築かれなくなる。
 西国東は六世紀代に入って墳丘規模が縮小するものの野内古墳(五〇メートル)、猫石丸山古墳(六五メートル)が築かれる。墳丘規模は、五世紀後半の真玉大塚古墳に比べれば約半分の規模になるものの、他地域の首長墓と比肩するほどの墳丘規模を有する。
 また日田、玖珠は筑後川の中・上流域にあたり、豊後と言えども交通路から言えば筑後川から有明海に出た方が交通の便が良いところである。玖珠は四世紀前半頃の全長二〇メートルの小型前方後円墳の瀬戸1号墳が見られるもののそれ以降は首長墓は築かれない。全長四八メートルの亀都起(きつき)古墳が六世紀前半~中頃に突如首長墓が築かれる地域である。日田は古墳時代前・中頃を通じてこれまでのところ主な首長墓は見られない。全長六五メートルの朝日天神山2号墳が六世紀前半頃に突如築かれ、次に全長三四メートルの朝日1号墳が築かれる。
 このように豊前南部の中津平野から宇佐平野、そして西国東を除いて東国東から南の竹田・緒方・三重といった大野川中・上流域まで五世紀後半代以降、首長墓が築かれていない。西国東は真玉大塚古墳から淡輪系埴輪が見つかっており(清水二〇一一二〇〇五)、紀氏との関わりが想定される。また玖珠・日田は、日田の朝日天神山古墳から須恵器大型平底壺が出土しており、遠賀川上流域の次郎太郎古墳群との関わりが考えられる(下村二〇〇五)。また石枕も遠賀川中・上流域との関わりが想定される(吉田二〇〇五)。また出土した三輪玉は沖ノ島7号遺跡などからも出土している。そういったことから朝日天神山古墳群の首長層はヤマト王権との関わりが推定され、ヤマト王権と密接な関わりをもち、遠賀川中・上流域の首長層とも密接な関係をもつ首長層であったことが推定される(若杉二〇〇五)。このように日田の首長層は、ヤマト王権との関わりを密接にし、沖ノ島や遠賀川中・上流域の首長層との関わりも考えられる新興の首長層の存在が想定される。
 こうしたことから豊後内においても畿内やヤマト王権との密接な関わりをもつ首長層が所在する地域は、六世紀代に入ってもなお首長墓を築いていることがわかる。したがって、東国東から大野川中・上流域までの六世紀代に首長墓を築き得なかったのは、田中裕介氏が指摘するように「広域盟主」すなわちヤマト王権に深く組み込まれた地域であるのか、それとも反対にヤマト王権との関わりを全くもち得なかったことが考えられる。
 しかし、竹田地域の首長系譜は、四世紀前半~中頃の全長五三メートルの七ツ森C号墳から四世紀後半代の全長四九メートルの七ツ森B号墳が前方後円墳で、次の五世紀初頭~前半の七ツ森A号墳は径二〇メートルの円墳、五世紀前半~中頃の小塚古墳は径二五メートルの円墳で、首長墓は築かれなくなるが、五世紀末~六世紀初頭に比定される竹田・扇森山横穴墓からは横矧板鋲留短甲が一領出土している。このことからも五世紀後半以降首長系譜が断絶した地域は、ヤマト王権との関わりを全くもち得なかったのではなく、反対にヤマト王権内の身分秩序に深く組み込まれたことによって前方後円墳の首長墓が築かれなくなったのではないかと推測される。

B.首長系譜の継続
 ア.一大首長系譜の継続
 五世紀から六世紀にかけて引き続き首長系譜が継続して営まれる地域は、筑後川中流域の浮羽地域である。西流して有明海に注ぐ筑後川の筑後平野の最奥部に位置する。この最奥部から山がせまり山間部になったのち、次に開けるのが先ほどの首長系譜が断絶する日田盆地である。
 筑後川流域は、下流域は依然大雨時の氾濫原にあたり集落・古墳の数は少ない。中流域に入ると北岸に「太宰府・二日市・御笠川上流域」・「宝満川上流・筑紫・三国丘」・「夜須・三輪」・「朝倉」の各地域に五?六世紀にかけて前方後円墳が点在するものの継続して築造されることはない。五?六世紀に継続して築造される地域は筑後平野最奥部の「浮羽地域」である。
 五世紀の北部九州で甲冑の出土が三つの地域で大半を占める。それは、豊前北部、宗像とこの浮羽である。北部九州出土甲冑の約三分の一の四〇領余がこの浮羽に集中している。最も多いのが全長八〇メートルの月岡古墳である。この古墳から眉庇付胄、短甲八領八鉢、鏡四面、鉄刀七振、鉄剣二六振など、武器・甲冑が大量に出土している。次の塚堂古墳からも衝角付胄や短甲四領を出土しており、代々軍事拠点として中心的な役割を果たしていたと考えられる。
 六世紀前半の全長七四メートルの日岡古墳は盗掘のため副葬品は知られていないが、石室の内面に装飾が施され、筑後川流域を象徴する多重同心円文が見られる。『日本書紀』景行天皇十八年に「的邑(いくはのむら)」、『豊後国風土記』に「生(いく)葉(は)」の地名があり、軍事氏族として知られる「的臣」の存在が想定される。五世紀前半の全長九六メートルの法正寺古墳から六世紀末の全長一〇三メートルの田主丸大塚古墳まで七基の前方後円墳が継続的に築造され、しかも月岡古墳や塚堂古墳からは大量の武器・甲冑が出土し、日岡古墳の石室には「的臣」を想定させる「的(まと)(まと)」を描いた多重同心円文が施文されることから、軍事的役割を果たす氏族であったことは想像に難くない。また月岡古墳には畿内型の長持形石棺が埋置されていることからも、ヤマト王権と強いつながりを想定することができる。
 もう一つ五世紀後半から六世紀にかけて首長系譜が継続する地域がある。それは肥前の「養(や)父(ふ)基(き)肄(い)」地域である。五世紀後半の全長六五メートルの岡寺古墳から全長六〇メートルの庚申堂塚古墳、全長八三メートルの剣塚古墳、そして六世紀後半の径四〇メートルの大型円墳の田代太田古墳まで継続する。田代太田古墳の石室内には日岡古墳に描かれた多重同心円文が描かれており、被葬者は軍事的氏族の可能性が高い。
 このように五?六世紀にかけて継続する首長系譜が存在し、被葬者は軍事氏族の可能性が高く、ヤマト王権は朝鮮半島出兵をにらんで筑後川中流域に軍事的拠点を設置したため首長系譜が継続したことが考えられる。

 イ.一大首長系譜の継続と周辺中小首長層の再編成
 先に見た「一大首長系譜の継続」は、全長八〇?一〇〇メートルの有力首長墓が五?六世紀にかけて継続している地域の例を示した。次に全長八〇?一〇〇メートルの有力首長墓が継続し、その周辺の中小首長層が新たに出現する地域がある。
 まず豊前北部の京都(みやこ)平野があげられる。京都平野の北側を東流する長峡川(ながおがわ)上流域では、五世紀末前後に全長四〇メートルの寺田川古墳が築かれ、その後全長八〇メートルの八雷(はちらい)古墳、全長九〇メートルの庄屋塚古墳、一辺四〇メートルの橘塚方墳へと七世紀初頭前後まで継続して有力首長墓が築かれる。先に見た筑後川流域では、有力首長墓が築かれた周辺地域では、前方後円墳は激滅する傾向にある。これに反して京都平野では五世紀代には有力首長墓がほとんど見られなかったが、六世紀代に入って今川流域や小波瀬川流域など各流域毎に二〇?三〇メートル前後の中小有力首長墓が数多く築かれるようになる。このことは中心的役割を果たす長峡川流域の有力首長層を中心として周辺中小地域の首長層が有力首長層を介して六世紀代に新たにヤマト王権に組み込まれたことを物語っている。すなわち長峡川流域の有力首長層を中心に周辺中小地域首長層が再編成されたもので、ヤマト王権―有力首長層―中小首長層のピラミッド型階層秩序がこの京都平野に形成されたことを示している。
 この京都平野と同様の再編成が行われた地域は宗像地域である。勝浦・奴山・須多田の三地域に順々に五〇?九〇メートル前後の有力首長墓が築かれ、これらの三地域を中心に釣川上流域や周辺地域で六世紀代に入って新たに二〇?四〇メートルの中小首長墓が築かれる。この宗像地域も京都平野と同様にヤマト王権―有力首長層―中小首長層の階層秩序が形成されたものと思われる。京都平野は、五世紀代には中小古墳に甲冑の副葬が多くみられ、周防灘沿岸部の稲童古墳群を中心に軍事集団が組織されていたことが想定される(行橋市教育委員会二〇〇五)。
 宗像地域も全長九七メートルの勝浦峯ノ畑古墳からは多量の武器・甲冑が副葬されており、武人的性格の被葬者を想定することができる。そして宗像、豊前北部両地域の中小首長層は六世紀に入ってから築かれていることから、継体朝に新たに編成された軍事組織が想定されていることになる。
 先の的臣と想定される筑後川流域では、河内政権から引き継ぎ欽明朝まで有力首長墓が築かれ、周辺の中小首長層はあまり見られない。これとは異なり豊前北部や宗像地域では、五世紀代にも有力首長墓が築造されるものの六世紀代に入って周辺地域で中小有力首長墓が築かれるようになる。このことは筑後川流域では河内政権の時から継続的な軍事組織が編成され、豊前北部や宗像地域では五世紀代に軍事組織が編成されているものの六世紀代に入って中小を含む新たな軍事組織が再編成されたことを裏付ける。
 すなわち北部九州では筑後・豊前北部・宗像で五世紀代に軍事組織が編成されたものの六世紀代に入って継体朝に豊前北部・宗像の二つの地域のみ中小首長層を含む新たな軍事組織が再編成されたと言えよう。

C.新興勢力の出現とその背景
 次に乱後の北部九州の状況について検討していきたい。先に六世紀初頭?前半頃に新たに出現する中小首長墓を見てきたが、次に六世紀前半?中頃にこれまでとは異なり規模が急激に大型化する地域や、これまであまり首長墓が築かれなかった地域に新たに首長墓が出現する地域などが北部九州の諸所に見られるようになる。
 まず糸島地域の「泊・元岡・桑原」地域に全長四九メートルの元岡石ヶ原古墳が築かれる。これは小田富士雄氏が指摘されるように『正倉院文書(しょうそういんもんじょ)』の筑前国嶋郡(しまのこおり)川辺里(かわべのさと)の「肥君猪手(ひのきみのいて)」に関わるものと考えられる(小田一九九七)。
 次に早良平野・粕屋地域の「蒲田・粕屋・篠栗」の全長七五メートルの鶴見塚古墳には、以前に石屋形状のものがあったと伝えられている。もう一つ福岡平野の「博多・那珂・井尻・諸岡・板付」地域の全長七五メートルの東光寺剣塚古墳にも石(いし)屋形(やかた)が築かれている。宗像の桜京古墳には石室内に彩色の装飾と石屋形が築かれている。
 以上のように北部九州の諸所に肥後の古墳文化の影響が窺われ、『正倉院文書』の筑前国嶋郡の戸籍にみる「肥君(火君)」の影響が考えられる。『日本書紀』などにも「筑紫火君」の名が見え、「筑紫君」と「火君」の婚姻関係が結ばれたことによるものと推測され、こうした婚姻関係を元に北部九州に肥後の葬送儀礼の一部が進出してきたものと考えられる。すなわち筑紫君磐井の乱後の北部九州は、ヤマト王権だけでなく、火君の影響も進出し、複雑な様相を呈したと思われる。
 
四.九州における雄略朝?継体朝にみる変化と画期の歴史的背景
 最後にまとめにかえて、先にみた変化と画期についての歴史的背景について私見を述べてみたい。
 川西宏幸氏の同型鏡の分布を見ると、九州では肥後七面、筑後一面、筑前五面、豊前四面で合わせて一七面見つかっている。このうち肥後の七面のうち四面は江田船山古墳で、筑前の五面のうち三面は沖ノ島21号遺跡、山ノ神古墳、勝浦で各一面である。豊前は馬ヶ岳・京都二面、番塚古墳一面となり、何れもほぼ京都平野である。
 この分布を見ると豊前は京都平野の豊前北部、勝浦は宗像、筑後と、先にみた軍事集団が編成されていた地域と重なることが指摘できる。このことは、五世紀代は豊前北部・宗像・筑後の三地域を中心に軍事集団が組織されていたことが裏付けられ、ヤマト王権は武器・甲冑のみならず同型鏡の下賜を介して豊前北部・宗像・筑後・肥後地域に軍事集団を組織していたことが想定される。そしてこれらの有力首長層は有力首長墓を継続して築いていたと思われる。
 六世紀代に入って新たに中小首長層を含んで再編成されたことを述べたが、この六世紀代の中小首長層の再編成に金銅製品が下賜された可能性がある。
 広帯二山式冠は佐賀県唐津市の島田塚古墳、垂飾付耳飾も同島田塚古墳に副葬され、この他唐津市の玉島古墳や福岡県春日市の日拝塚古墳に山梔子形垂飾付耳飾が副葬されている。飾(しょく)履(り)は宗像市の牟田尻古墳群の山田古墳から出土し、出土古墳は明らかではないが京都平野の伝行橋市大字竹並からも出土するなど、中小前方後円墳や円墳などから多く出土する傾向がある。こうした傾向は、有力首長層を中心として中小首長層を再編成していく過程で下賜された可能性が高い。ただし、ヤマト王権から直接下賜されたことも考えられるが、有力首長層を介して下賜された可能性もある。
 北部九州でのこのような中小有力首長層に下賜された金銅製品は、玄界灘を臨む佐賀県唐津市や、博多湾を臨む日拝塚古墳、玄界灘を臨む宗像市周辺、周防灘を臨む京都平野など五世紀代に軍事組織を編成した豊前北部や宗像とさらに海を臨む周辺地域まで広がった地域の中小首長層に下賜されていたことが窺える。
 このように六世紀代のヤマト王権は、北部九州の筑紫君や筑紫肥君などの有力首長層とともにその周辺の中小首長層にまで金
銅製装身具を媒介して軍事組織を再編成していったことが推測される。
 ただ、このように地方の首長層だけでなく、井上義也氏が指摘するように有力首長墓や屯倉が設置された中小首長墓から断続ナデ技法の円筒埴輪をもつ大型円墳や前方後円墳がみられることは、ヤマト王権直属の首長層の存在も想定することができる。
 このように五世紀の緊迫した朝鮮半島情勢をにらみ、北部九州には豊前北部・宗像・筑後といった地域を中心に軍事組織が編成され、六世紀に入ってさらに中小首長層を含んだ組織に再編成されていったことが窺われる。

参考文献
石井陽子 二〇〇九 「博多湾沿岸地域における古墳時代の集落動態」『九州考古学』第84号
井上義也 二〇〇四 「断続ナデ技法円筒埴輪をもつ古墳の性格」『福岡大学考古学論集』小田富士雄先生退職記念
宇野愼敏 二〇〇三 『九州古墳時代の研究』学生社
宇野愼敏 二〇〇九 「多重同心円文の出現と展開」『地域の考古学』佐田茂先生佐賀大学退任記念論文集
小田富士雄 一九七九 『九州考古学研究 古墳時代編』小田富士雄著作集2 学生社
同 一九九七 「筑前国志麻(嶋)郡の古墳文化 ―福岡市元岡所在古墳群の歴史的評価―」『古文化談叢』第39集
川西宏幸 二〇〇四 『同型鏡とワカタケル―古墳時代国家論の再構築―』同成社
清水宗昭 二〇一一 「国東半島における首長墳の変遷」『古文化談叢』第65集(4)
下村 智 二〇〇五 「1.大型平底壺」『朝日天神山古墳群』日田市埋蔵文化財調査報告書 第60集
田中裕介 二〇一〇 「東九州における首長墓の変遷と性格」『九州における首長墓系譜の再検討』 第13回九州前方後円墳研究会 鹿児島大会
田中良之 一九九五 『古墳時代親族構造の研究』柏書房
日田市教育委員会 二〇〇五 『朝日天神山古墳群』日田市埋蔵文化財報告書 第60集
吉田和彦 二〇〇五 「3.石枕」『朝日天神山古墳群』日田市埋蔵文化財調査報告書 第60集
行橋市教育委員会 二〇〇五 『稲童古墳群』行橋市文化財調査報告書 第32集
若杉竜太 二〇〇五 「2.三輪玉」『朝日天神山古墳群』日田市埋蔵文化財調査報告書 第60集


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大阪大学「百舌鳥・古市古墳群と古代日韓交流」国際シンポジウム

11/14(土)大阪大学「百舌鳥・古市古墳群と古代日韓交流」国際シンポジウム
2015.12.1産経新聞に特集されました。
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                      福永伸哉先生講演
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                       シンポジウム
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豊中歴史同好会会員で、同好会経由で申し込まれた方には、10月度例会受付にてお渡ししました「申込み控」を当日ご持参ください。
申し込まれていない方で参加ご希望の方は下記ホームページから直接お申し込みください。ただし、定員400人に達し次第締め切りです。
申込先 http://21c-kaitokudo.osaka-u.ac.jp/nonaka_kofun
問合せ先 大阪大学大学院文学研究科考古学研究室TEL:06-6850-5106
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